第10回ヨルダン=イラク国境難民キャンプ医療支援活動レポート

「こどもの命を守る」   
            
        医師:加藤ユカリ

・第1回報告 加藤ユカリ
・第2回報告 大向徳子
・第3回報告       
・第4回報告 中村久美
・第5回報告       
・第6回報告 大向徳子

・医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ
第7回報告 加藤ユカリ  
・第8回報告 
第9回報告 加藤ユカリ

第2回オーストラリアミッション 大向徳子
第10回報告 加藤ユカリ
第11回報告 加藤ユカリ

彼女はその小さな身体の中で、たった一人で「武装解除」に挑戦しているのだろうか。

私たち人類は、自分たちの中にミクロのレベルでさえも防衛システムをもたなければ、他と共存することができないのだろうか。

小児科医をやってきて思うことがある。こどもの病気は大人たちへいつもメッセージを運んでくれる。耳をかそうとすれば・・・。私の一番下の娘の病名は「好中球減少症」だった。

今回の難民キャンプ行きまで、私の個人的な生活は疲労困憊を極めた。2歳の娘が入院した。行けないかな、と思った。消灯時間が近づくと、彼女がさみしがって泣かないように私は子守唄を歌って寝かしつけた。小さな手を握って病気が治って元気になってまた一緒に家に帰りたいと思った。そうしたら、「難民キャンプには絶対に行こう。」と思った。

 例のごとく飛行機の中で猛勉強や依頼された原稿などをとりつかれたように書いた。「病気のこどもたちが待っている。」と確信していた。

薬剤師のとくこさんと看護師のくみさんも、当直明けの厳しい中、がんばって来てくれた。

到着後、アンマンのホテルでは、まきさんとたけくんと看護師の国井さんが待ってくれていた。3人は前日まで、シリア国境からイラク国内へはいったところにあるアル・ワリード難民キャンプに視察へ行ってきた。

未来の女医イマーちゃんとスマイル医師団
(向って右がユカリ医師)

複雑な中東のヒストリーの中、各国の思惑や権力者が変わるたびに翻弄されてきたパレスチナ人が3000人逃げてきて、そこで暮らしているという。イラク戦争で犠牲になったのはイラク人だけでなく、クルド人やパレスチナ人たちも迫害されるに至ってしまった。「国」という枠組みにあてはめると無理がある、中東の独特な風土や文化や歴史があるようだ。

ずっと昔、もともとは、豊かな文明をもち、人々は旅人をもてなし、助けあって暮らしていたという。アメリカや西欧は、無頓着なおせっかいをしてはいけないような独特のバランスがあったのだろうか。

でも彼らには、きっと世界が尊敬するような「自己修復力」があるはずだ。実際、イラクに留まって自国の人たちをほとんど無償で助けているイラク人もいるのだ。あの、われらがイブラヒムや、最近東京でお会いした心臓外科医のオマール先生だ。4つの小児基幹病院で働いているドクターたちも、おっしゃる。「私たちは殺されることになっても最後までここで子供たちの命を守ります。」

アル・ワリードキャンプにはイタリアのNGO の支援があり、医師が常駐しているという。JIM−NETはそこに充実した検査室を支援することになった。水も汚く、かなり不衛生なキャンプで、そこの人たちのためにも改善が必要らしい。そこで、真紀さんたちは国連にレポートを提出する。NGOの国際医療支援は緊急支援や診療だけでなく、アドボカシー(代弁)や調査など、多岐にわたる。

 真紀さんと同じ早稲田大学を卒業して看護師になり、JIM−NETで働く国井看護師さんは、今度別のNGOとミャンマーに医療支援に行くという。日本政府や国連さえも入れないミャンマーも、長年助け続けて信頼を得てきたそのNGOは入れるという。

 私たちもヨルダン=イラク国境難民キャンプ医療支援、必要とされるかぎり続けよう。

 

 翌朝、5時にノーマンズランド難民キャンプへ出発だが、夜は真紀さんの誕生会を現地の事務所で祝った。白血病の子のお母さんのイラクの家庭料理、たけくんの入れてくれるトルキッシュ・コーヒー、とってもおいしい。3歳の白血病のマルヤムくんとそのおねえちゃんも一緒。

ほんとうにかわいらしいきょうだいだ。お父さんが携帯電話に保存したこどもたちの写真を見せてくれた。下のあかちゃんが生まれたとき。踊りの発表会の時。・・・幸せな写真・・・そして、マルヤムくんの闘病生活の写真。酸素マスクをして、点滴につながれ、顔色も蒼白だ。・・・私はケーキを食べるのもわすれてお父さんが次々見せてくれる写真に胸が痛んだ。

 「まだ治療中だけど、今はとっても元気。がんばったんだね。」

 明日の難民キャンプは絶対にがんばろう。わたしたちはヨルダンに遊びにきていない。実際、死海にもぺトラ遺跡にも一回も行っていない。ヨルダンにはこれからも何度も行くけど、イラクが平和になるまで、ヨルダンではこどもたちと以外は遊ばない。もっと大切なものをいただいている。

 真紀さんの誕生会は実はチャリティ・レストランだった。

 いよいよ出発の朝だ。

かとうたけくんが、今回の作戦を「2本の線作戦」と名付けた。

ヨルダンの国境ラインとイラクの国境ライン。砂漠の中に2本の線がほんの1キロメートルを隔てて立ちはだかっている。あの難民のひとたちはそこに閉じ込められ、どちらへも入ることができない。そして苦しんでいる。

なんとかしなければならない。わたしたちも、いい加減、あのひとたちをなんとか出してあげたい。200人のきさくな、優しいひとたち。半分が未来あるこどもだ。

行くすがら、水頭症のコマールくんについて話し合った。


チャリティ・レストラン

彼はアンマンの赤十字(赤新月)病院で手術をしてもらえたものの、定期健診を受けなければならないが、お父さんが拒否しているという。お父さんはコマールの病気を理由にして第3国の受け入れを希望しているそうだ。わが子の病気が治ってはいけないのだ。コマールが急性胃腸炎で脱水になって点滴してあげたとき、わが子を心配して泣いていたおとうさんだ。コマールを大切に思っている。

 都市難民でもそのような家族が見受けられた。こどもの病気を政治的に使う親だ。そんな親も、本当にこどもを大切にしていた。悪い親じゃない。悲しい親なのだ。彼らはそこまで追い詰められているのだ。

 とにかく、コマールが心配だ。水頭症の合併症として、髄膜炎、腹膜炎などの感染症や溜った髄液が過剰に排出されるような合併症もありうる。

 そこで、途中のレストランで私は、医療機関への紹介状を書いた。「こんな症状がでたら、治療してあげてください。」コマールの両親に渡していざというときのために保管してもらおうと思った。医師のサインのはいった手紙をもっていたら、きっと諸機関がまた動いてくれると思ったからだ。

 

 国境では、警察や軍、役人の人たちは変わりなく、とっても親切だった。

「イラクのこどもたちを助けたい。」わたしたちの目的に腰をかけて「ありがとう。」と言ってくれた。

 道中を親切にエスコートしてくれ、荷物の上げ下ろしも手伝ってくれた。

遠くではこちらに銃を向ける軍のひとたちもいたが、手を振ると、明るく手を振り返してくれた。

 いつか、本当に銃や武器が要らなくなる日がきたらいいな。

 

 キャンプへ到着。

 40度はゆうにこえる砂漠の暑さ。

 またみんなに会えた。

 たくさんのこどもたちが笑顔で走って寄ってくる。イマーちゃんはとくこさんを「うちにおいでよ。」とテントへ案内する。

コマールは?今アンマンで健診を受けにいっていると。あー、よかった!

 こんな紙きれ、要らなかった。一応、自己管理してもらうためにつくった「日誌」のような手帳だけことづけた。

 さあ、診療をはじめよう。

次々患者さんが現れる。普段はアラビア語を話す薬剤師のハイサムが患者さんの話すクルド語を英語に通訳してくれる。メディカルの英語は本当に世界共通だ。学生のころ、解剖学で何百と言う骨や筋肉、血管の名前を英語で覚えさせられた。「なんでー?」と言いながら、試験に落ちたくないから必死で覚えた。今までも必要なことはたくさんあったが、こんなところでは治療や救命にダイレクトにつながる。「わけわかんないけどー」と言いながらとりあえず覚えておいてよかった。

 日本の中学生の親は「こどもたちに勉強の負担をかけすぎている。」と国連から再三、注意を受けているという。ただ競争させるラットレースでわが子にムチを打ってはいけないが、「なんでだよー?」と言われ「とりあえず勉強しろ。」という親はとりあえず正しい。

 私も無事日本に帰ったら、こどもたちへの教育方針を変えよう。

 完璧にそろえておいたはずの医療器具、医薬品が足りない。

わたしがマイ・バッグに入れていた聴診器と携帯電話のライトとスタッフ用の常備薬で対応。でもまたたく間になくなる。

 ハイサムが自分の薬局からスマイルが購入した支援用の薬をどっさり出してくれた。しかも、もと医療器具やさんだったという男性が血圧計や耳鏡などいろいろなものを貸してくれた。ありがたい!そのかわり、その男性のよくわからない訴えを優先して聞くはめになった。患者さんがこんなに待っているのに・・・。仕方ない、トレードだ。

 仮設診療所の外で、激怒して叫んでいる男性の声が聞こえてきた。

2歳のやせた女の子を抱いて、すごく興奮してさけんでいる。夜間の小児救急をやっていると待合室で興奮する親には慣れているし、いつも共感してしまうのだが、この父親は怒っているというよりは、苦しんでいた。


マルヤム君とお姉ちゃんと国井看護師と
徳子、久美

 「私はもと薬剤師だ!すべて知っている!こんな子を外で後回しにして待たせたら、乾ききってしまうじゃないか!」

 その女の子は1型糖尿病だった。すい臓の機能は欠落し、1日2回かわいい小さな腕にインシュリンの皮下注射をされていた。血糖値を測定するために1日4回小さな指に血液を採るための傷をつけられていた。

 そしてそのつらいことをわが子にしなければいけなかったのは、そのお父さんだった。

幼児の糖尿病のコントロールはもともと難しいのだが、こんな高温の環境にいれば脱水になりやすく、食事もとれたりとれなかったりの難民キャンプの生活はさらにこの子の命を危なくしていた。血糖値は夜間は40mg/dl代になったり、高い時は500mg/dl近くになることのあるという。2、3日入院してコントロールが必要だ。低血糖も命にかかわるし、高血糖になる糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)という病態は緊急に治療が必要になる危険な状態だ。この子は医師も常駐しない病院もない、この過酷なキャンプで、生命の危険を常にもちながら生活しているのだ。

 お父さんもとにかく2、3日でいいからコントロール入院をさせたいと言った。

興奮しているお父さんに言った。

「お父さん、どうか信じてください。必ず国連にお願いして必ず入院できるようにします。」

 私の娘と全く同い年だ。あの病気をもつ娘が医師のいない難民キャンプの子だったら生きてはいけなかったかもしれない。2歳の子が糖尿病をもって難民キャンプの生活をするのは本当に危険だ。この子をこんなところで死なせるわけにはいかない。

 ハイ・プライオリティとしてレポートを書くことにした。

 お父さんは優しいジェントルマンに戻り、女の子を抱いてテントを去った。

 絶対に助けたい。もし、この子が入院できず、DKAになってしまったら、私は必ず治療しにここへまた入りたい。そしてこの子たちをなんとか、ここから出してあげなければ!

 患者さんが続く、続く・・・。ハイサムは大活躍だ。大人の病気に精通している。薬の選択も的確だ。ハイサムは熱中症気味でふらっと倒れかけたが、すぐにとくこさんとくみさんが経口補液を与えてくれてすぐ復活した。

 今回は朝から夕方まで診察できると聞いて、お昼休憩はちゃんととって食べよう、とみんなで話し合ったのに、まだお昼にならないのかな。


中村久美看護師とキャンプの子

 狭心症、胃腸炎、アレルギー、尿管結石、閉塞性静脈炎、痛風、膠原病や血液疾患などを疑われる女性、・・・。

 ERやスーパーローテートしておいてよかった。でも、まだまだ研鑽必要だ。

今回も医師一人で大人もこどもも。でも外で長時間患者さんが待っているらしい。お手伝いしてくれている男性スタッフがときどき、遠慮がちに「急いでください。みんな炎天下で待っているんです。」と言いに来る。「すみません!」

 精一杯急ぐ。でもすべてが一期一会の診療だ。「続いたらまた来てください。」「様子みてください。」が通用しない。でも急ぐ。

  患者さん一人に、家族みんながつきそってくる。アラビアの文化っていいな。

  硬い表情の女性を診察した。ご主人が説明する。

「妻は夜、全く眠れないんです。こどもの将来のことや、どうしてこんなところで生活しなければいけないのかとか・・・。」妻の苦しみを一緒に背負ってくれる優しいご主人。身体の訴えも多く、診察に時間がかかった。

 苦しむ両親とうらはらに、12歳のおねえちゃんと7歳の弟が仲良くにこにこして、とってもおりこうさんで、横で付き添っていた。

 お父さんが言いにくそうに、でも思い切った様子で私に言った。

「どうして、日本はわたしたちを受け入れないんですか?」

その言葉は心に突き刺さってきた。

「日本はあなたたちみなさんに責任があります!」

 私は何を言っているんだろう。阿呆な政治家みたいだ。

私はこの家族が好きだ。自分の家族とも重なる。

「日本の私の家に遊びにきてください!」

そこにいた誰もが呆れないでくれた。お父さんは「いつか行くよ!」と笑った。お母さんの顔にも笑みが・・・。

 お昼ごはんはまだかな。

「みなさん、もう夕方ですよ。そろそろ帰りますよ。」

キャンプ内の環境を調査していた真紀さんたちが呼びにきた。もうそんなに時間がたっていたんだ。まだお昼ごろだと思っていた。

 その明るくなったお父さんが「ちょっと息子の眼を見てくれますか?」

7歳のはにかんだ男の子を診た。片方の眼球結膜に色素沈着があり、しかも腫瘍性に盛り上がっていた。

「真紀さん、癌かもしれないよ。」明るさを取り戻した家族の前で日本語で話した。念のため全身の診察をした。ほかには所見はない。私は深刻にならないようにした。その間、お父さんも何か明るく家族と話し続けていた。

 国連へレポート提出だ。必ず検査受けてもらえるようにしよう。

 

 帰りの車を難民キャンプの入口の鉄の柵のところで待った。ずっとお手伝いしてくれたイマーちゃんがやってきた。

「I LOVE YOU.」とかわいい声で何度も言ってくれた。キャンプの中で難民のひとたちが自分たちでつくった学校で頑張ってお勉強している。英語も上手だ。「将来、何になりたいの?」

「ドクトーラ。(女医さん)」

 この砂漠の中の鉄柵で囲まれた中で、7歳の少女が将来の夢をもっている。

聴診器を肩にさげてあげた。「これあげる。」イマーは喜んでお父さんのところへ行って、お父さんの胸に聴診器を当てた。かわいい小さなドクトーラだ。

 アザッドという青年がやってきた。いつも携帯電話で、わたしたちのチームとここの人たちの橋渡しをしてくれる。そして、いつも明るく前向きな青年だ。キャンプ内のこどもたちの学校で先生もしている。そして前向きな夢を語る。

 この人たちはこのこどもたちはこんなところにいながら、ひときわ輝いている。こんな輝きは日本の都会では見られない。

 私は、ここが、ここにいる人たちが、自分の家族の次に好きだ。

わたしたちの車が去る時がきた。サファリパークの柵じゃない。こんなに高い必要もないほど、空高い鉄柵が閉じられる。動物じゃない。人間がいる。

この人たちの輝きはその鉄柵なんかに低められることは決してないほど「人間の尊厳」を感じさせてくれる。その鉄柵が閉じられる時はベートーベンの「第九」やモーツアルトの「不協和音」、そしてこれからつくられる、もっともっと人々を讃えるような音楽がBGMにふさわしい。

 どうか、この難民キャンプにいる人、世界中の難民キャンプにいる人を、讃えてください。世界中のこどもたちが幸せになりますように。

 

 深夜にホテルに帰り、緊急に検査治療が必要な3人について国連へレポートを書き、真紀さんに送ってもらった。

 なかなか動かないようだったので、何度かレターをメールで送った。

私のメールアドレスがたまたま国連の人のC.Cに入ってしまったので、こちらにもメールが送られてきた。読んではいけなかったかもしれないが、「こんなメールがきている、なんとか、対応しよう。」と前向きに努力してくれるよう、話し合ってくれていた。

 糖尿病の子と眼球の腫瘍の子について、検査・治療費の負担も申し出た。

 

 眼球の子の診断について、私が以前に研修した徳州会病院の恩師の先生を通じて写真でもって眼科の先生に聞いてもらった。一人の眼科医は悪性腫瘍の可能性があるとのご判断。その上司の先生は動静脈奇形という両性疾患とのご判断。

 いったん、この国連への申し出、どうしようかとも思った。逆に、癌の確定ではないのに、危険を冒させてまでイラク国内の病院へ搬送させてはいけない。だから、よけいに、ヨルダン国内の私たちも支援しているキング・フセイン癌センターでの検査を検査・治療費の負担も申し出てお願いした。

 みんな、戦争で麻痺している。戦争状態が優先されて、こどもの命が後回しにされている。国連憲章の「こどもの権利条約」も虚しく形骸化している。

 日本のような平和な国だったら、悪性か良性か、どちらか疑われた時点で眼科専門医の検査を受けるはずだ。

必要があれば健診や治療を受ける権利がすべての国のこどもたちにはある。その子の国が戦争をしていようとも、先進国への負債を抱えて貧困であろうとも・・・。

「空気読めない」と言われても、通常の検査・治療を受けさせる。小児科医として。人の親として。こどもを守ろうとするメンバーすべての願いだ。

 UNICEFも、戦火の国のこどもたちに予防接種を受けさせるために停戦させたではないか。こどもの命は何よりも優先させる。食物連鎖の下の下の下のほうにいる下等と言われる生物でさえもそうしているではないか。

わたしたちにできないはずがない。

 時間は1か月半かかったが、まず眼球の腫瘍の子はヨルダン国内のキング・フセイン・癌センターに送られることになった。2歳の糖尿病の子についてはまだ待っているところだ。きっともうすぐだ。


難民キャンプの女性に注射をするユカリ医師

 帰国後、私の娘の精密検査を聖路加国際病院でやってただいた。血液の専門の望月先生は昔からスマイルの当直を助けてくださっている。早朝に帰られまたご自分の診療に戻られるスーパー・ワーキングーマザーだ。そういえば、ここの・・・先生は娘が生後4か月ごろ、鳥取に初めて帰省したとき、米子空港で偶然出会い、抱っこしてくださった。今、UNICEFの親善大使をなさっている。

 信州大学に血液が送られ、分析してくださった。

彼女は生まれつき好中球に対する抗体をもっている。自分で自分の好中球を壊してしまうのだ。

 人間の細菌やウイルスなどに対する防衛システムには、細胞性免疫と液性免疫と大きく分けて二つある。そのうちの細胞性免疫というのは、白血球などの細胞が細菌やウイルスをやっつけて食べる。好中球というのは、白血球のうちの一種で細菌などを食べる。液性免疫がもっと高度な免疫防衛システムとすると、好中球というのは「歩兵」のようなものだ。だから、かぜがこじれたり、中耳炎になったりすることはあっても、そんなに重症になることはないという。

 

 わたしたちはこれらの防衛システムをもたなければ、他と共存することはできないのだろうか。彼女の中の「歩く兵隊」は、敵の陣地にかわいい子犬でも見つけたのだろうか。彼女は小さな身体で「武装解除」に挑戦したのだろうか。

 そして私たちは、第3世代セフェム系抗生剤で徹底的に敵を破壊する。もう、ほぼ壊滅していても、何度も何度も落とす。子犬はもう形さえも見つからない。マイクロアブセスは許してはいけない。またムクムク起き上がって悪さをする。

だからまた何度も何度も落とす。抵抗分子なんて、もういない。でも、念のためにまた落とす。

 

そして、この病気は3歳くらいになったら何事もなかったかのように自然に治る。もう、そんな挑戦はしなくなる。

私たちは戦わないといけないのだろうか。戦ったら勝たなければいけないのだろうか。敵は破壊するべきものなのか。癒すものなのか。

彼女はこんな病気でわたしたちにどんなメッセージを伝えようとしたのだろうか。

 

 卵巣がんで亡くなったハニーンが一番大切にしていたお人形は私たちのリビングにいる。こどもたちのおもちゃやぬいぐるみと一緒になじんでいる。ピンクのクマさんやアンパンマンととっても仲良さそうだ。

 こどもたちは、もうその答えを知っているかのようだ。

 

 私にはまだわからない。

 今度は11月に行く。