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・第1回報告 加藤ユカリ ・第2回報告 大向徳子 ・第3回報告 ・第4回報告 中村久美 ・第5回報告 ・第6回報告 大向徳子 ・医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ ・第7回報告 加藤ユカリ ・第8回報告 ・第9回報告 加藤ユカリ ・第2回オーストラリアミッション 大向徳子 ・第10回報告 加藤ユカリ ・第11回報告 加藤ユカリ |
第6回イラク難民キャンプ医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ 「君たちの名前を教えてくれ。君たちのことは忘れないよ。」 砂漠の中のノーマンズランド。確かにそこには、「良心の連鎖」があった。 私たちがこどもたちに対して責任ある世代になっておきた、この時代のこの小さな地球のイラク戦争という悲し いできごと。 「地球憲章」を読むときに気になる、地球の「危機時計」がもう少しで12時ををさしてしまう、まさにこのとき 、わたしたちが今すぐこどもたちに伝えなければいけないのは何だろう。それは、連日報道される「爆弾の炎」 ではなく本当の「イラクの人たちの善良さ」だ。「黒こげになった車」ではなく「あの国のこどもたちの笑顔」 だ。「嘆き」ではなく「希望」だ。わたしたちと全くかわらないわたしたちの家族だということだ。 2007年6月の暑い砂漠でのできごとを報告する前に、心臓病のノーランちゃんというイラク人の4歳の女の子の ことについて、どうしても伝えたい。 2006年9月第4回イラク人難民キャンプ医療支援は、私自身の3人目のベビーがまだ授乳中で行けなかった。で も、私よりさらに高い信念をもったスマイルのスタッフや先生方、JIM-NETの佐藤さんや鎌田實先生方がしっか り、継続してくださって、難民のひとたちからも信頼され、心待ちにしてもらえるようになっていた。 一方、イラクからヨルダンへ逃れてきた避難民は50万人、70万人、100万人ともいわれており、UNHCRも把握が 難しい状態が続いていた。 そのときも難民キャンプとはべつに、都市難民といわれる人たちの往診へもスマイル医師団は現地NGOカリタ ス・ヨルダンと協力しあって行っていた。ノーランとの出会いは尋常ではない、とそのときの森田先生も夫の加 藤隆医師も徳子薬剤師も久美看護師も加納事務長も、みんな言っていた。なかなかつかめない都市難民の居場所 。帰国もせまり、もう終わりにしようか、というところに、森田先生はじめ全員が「私たちはイラクの人たちを 助けにきたのです。まだ終わらせたくない。」と、最後の最後に訪問したところがノーラン宅だったという。 彼女の唇、顔は真っ青で、重度のチアノーゼであったという。その姿をみて、みんな驚いた。先天性の心臓病 をもち、手術もできず、医師から余命いくばくもない、といわれているという。 |
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ノーランはイラクで生まれ、出生直後に医師より「この赤ちゃんは数日もたないだろう。」と言われたそうだ 。その後生きながらえるも、無酸素発作をおこしては車で病院を受診していた。ある夜、また発作をおこし、病
院へ連れて行く途中アメリカ兵に車を降ろされ、歩いて病院へ行ったという。もうイラクにはいられないと思い 、一家でヨルダンへ逃れ住んでいる。 この尋常でない出会いを胸にスマイル医師団は帰国し、この女の子をなんとかして日本へ連れてきて手術して あげられないか、とみんなで悩んだ。いろんなところに相談した。誰からも「難しい」と言われた。ノーランの 心臓病はかなり複雑で、最重症なのだ。 理科の好きなこどもたちは、よく知っていると思う。ヒトが生きていくためには酸素が必要不可欠だ。息を吸 ってみよう。肺で空気中の酸素を取り入れる。一方、心臓から肺動脈という血管がでて、肺へいって血液に酸素 をもらう。その酸素をいっぱい取り入れた血液は心臓にもどって、今度は大動脈という血管を通って、ポンプの ような心臓から全身に送り出してもらう。そうして体中に酸素が供給される。 |
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ノーランは心臓の病気をもって生まれた。肺動脈の入り口が閉鎖していて、さらに心臓の右の部屋と左の部屋 に大きな穴が開いている。酸素をもらえないまま、全身から帰ってきた酸素の少ない血液がまたそのまま全身を めぐる。大動脈と肺動脈をつなぐ動脈管という管は健常な赤ちゃんは生まれるとまもなく閉じるのだが、不幸中 の幸いか彼女はこれが閉じないで開いたままという病気も合併していたため、わずかながらも血液中に酸素を混 じることができ、逆に生きながらえることができている。 みんなで途方に暮れた。「僕、またまた大借金してもいいよ。」ある夜、こどもたちが寝静まった後、夫が、「 ヨルダンへでかける前に、000(私のベビーの名)に当てたこの同じ聴診器で、ノーランちゃんの心臓の聴診 をしたんだ。」としみじみ言った。私も夫もなんとかしてあげたかった。 産経新聞さんに紹介していただいた東京女子医大の教授が「MAPCAという血管があれば手術はできるよ。きっ とあると思うから確認してほしい。」と言ってくださった。日本一の心臓外科の先生といわれている。 MAPCAというのは、肺動脈(酸素をもらうための血管)と大動脈(全身に酸素や栄養を運ぶための血管)をつ なぐために発生する大きな血管のことをいう。こんな病気があると、人間の体はなんとか生き延びるために、こ んな血管がむくむくと発達してくるのだ。ヒトの体は不思議でしょう。 とにかく心が躍った。ヨルダンの主治医に連絡をとるも、のんびりな「中東時間」は、私たち日本人にはじれ ったく、2007年1月、私は徳子さんと久美さんと事務長とヨルダンへ飛ぶことになった。MAPCAがあるか確かめに 。ノーランへ会いに。でも、私はまだ授乳中だ。1歳になったばかりの自分のベビーが気になった。朝晩搾乳す ればいい。自分の子さえよければと思いながら生きていくほうがきっと家族全員がつらいだろう。上の子たちに 聞いてみた。 二人とも言った。 「お母さん、行ったほうがいいと思うよ。」 平和な日本のお受験戦争ブームの中、何の環境も与えてあげられなかった母親だけど、育て方は間違ってなかっ たかも・・・。 |
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ヨルダンへ着いた。着いたと同時に教授から連絡が入った。「三尖弁閉鎖症(心臓の上の部屋と下の部屋の弁 の閉鎖)があるかもしれないことがわかった。それがあったら、根治手術は不可能だ。」 1日早くわかっていたらヨルダンに来なかったかもしれない。 でも来てしまった。 ヨルダンのノーランの主治医のキャルに会った。「弁の閉鎖はないよ。」と言った。まあいいや。ヨルダン滞 在はあと3日ある。 ノーランに会に行った。彼女の家どこだろう。探すのは大変だ。 こどもたちがたくさん遊びまわる、れんがのたたずまいを抜けた通りのごみ置き場の角にある、細い急な階段を 降りる途中の小さな小さな家だ。イラクへ連れ戻されないように、家族でひっそりと隠れるように住んでいた。 「夢のマイホームはまだまだ夢ね」なんていつも夫にすねる自分が恥ずかしくなる。 2歳の妹も一緒だった。なんてかわいい子たちなんだろう。でも、ノーランは本当にブルーだ。シビアなチアノ ーゼだ。なんとかしてあげなくては。 |
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彼女のお母さんはすごく興奮していた。国を戦争で追われ、貧しい生活を余議なくされ、さらに、わが子の余 命がもうすぐといわれ、冷静でいられるはずはないだろう。 それに、日本で手術となったら、またヨルダンへ再入国できないだろう。イラクへ帰されたら殺されるかもし れない。家族をスプリットすることになるだろう。もしかしたら、日本の空港で冷たい日本政府に止められ、そ のまま強制送還になるかもしれない。第3国は申請しているが、おそろしく難しい。 手術の難しさより、資金集めの難しさより、こっちのほうがさらに難しいことがわかった。 私たちは、この家族をスプリットしないでの日本への出入国をなんとかしてあげられないでしょうか、とアン マン市内を駆けずり回った。NGOのところや、よくわからないけど、力があるというおばちゃんのところ・・・ 。 とにかく「ビッドナー・ヌサイド・ヌーラーン(ノーランを助けたい)」と言い続けた。 佐藤真紀さんもずっと一緒にお願いして回ってくれた。みんな良心から親身になってくれたが、本当に難しい 。難しい。難しい。状況は煮詰まっていた。どこかの事務所で、話がハクネツしていた。みんなが興奮していた 。誰のせいでもない。戦争がすべてを壊した。私は、怒りの出どころと矛先を見いだせず、もう「国境」という バケモノを罵りたくなった。 佐藤さんが立ち上がった。 「僕、荷物のパッキングがありますので。あとよろしく。」 「え?」と私たちは戸惑った。 「何とかなるんじゃない?」 |
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私たちは、どこかでこの人を真似なければいけない。 でも、ヨルダンの中のいろいろな人たちとの出会いの中で、何か伝わっていくものと伝わってくるものを感じ た。 また逆に、こんなにたくさんのイラク人たちが大変な中、一人の子だけにかかわっている場合ではない、とい う反応もあった。当然だ。 ただ、説明しがたいのだけど、「たった一人のこどもを救うこと。」と「大勢のこどもたちを救うこと。」が このスマイルチーム一人一人の心の中で全く矛盾していなかった。3院のスマイルチームは真ん中の新宿でミー ティングを重ねる度、お互い言わなくてもみんなそう感じていた また「費用対効果」などというディメンショ ンも子供を助ける小児医療の世界には存在しない。 次の夜もノーラン宅へ行った。話は進まなかった。ストレスな空気が続いた。 |
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ふと見ると、超がつくほど生真面目な加納さんは不良債権の回収 に来た銀行マンのような顔になっていた。もと銀行の支店長だった人だ。「悪いことをしてきてしまった。」と いう時代の犠牲者だったが、出家僧のような気持ちでスマイルに入職してくれている人だ。私は通帳も印鑑もす べて加納さんに預けているが、彼は私に、いや子供たちの未来に、命を預けているような人だ。 久美と徳子はいたいけなノーランたちと遊んだ。この二人の信念とモチベーションと体力と子供たちへの愛は 無限の海のようだ。 行き詰った空気のまま、夜が更けていった。 ノーランのお父さんが 「できることなら、僕の心臓を取り出してノーランにあげてほしい。それはできないのですか!」と言った。 私たちは返事ができなかった。 ノーランのおじいちゃんが 「みんな日本へ行ってもいいよ。 私だけ一生会えなくてもいい。ノーランが助かるなら、私はもういいよ。」 と言った時、そこにいた全員が泣いた。 ノーランの主治医のキャルはとっても素晴らしい人だった。アメリカでしっかりボードをとった優秀な医師だ 。日本人のことをとっても高く評価してくれていた。「アメリカは壊していくけど日本は作り直してくれる。」 たくさんの日本人と友達になりたい。と。 自身がパレスチナ人で、パレスチナ難民のこどもをピックアップして、アメリカで手術を受けさせるという重 要な仕事もしていた。「医療の機会に恵まれないこどもたちに医療を受けさせてあげたいんだ。」と言っていた 。ノーランのことも一生懸命になってくださり、私たちのリクエスト通り、彼女に3D―CTや肺シンチグラムを してくださった。 食事に連れていってくれたときキャルは聞いてきた。 「彼女は日本語とは別の言葉をしゃべっているの?」 中村久美看護師は関西出身だった。 固有の振動数を響かせてヨルダンでも堂々と自国語を話す2児の母だ。 ノーランのかかりつけ医のリマは天使のような女医さんだった。開業医でありながら、6人のこどもを育てて いる。よく風邪をひくノーランを無料で診療してくださっていた。。 |
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「こどもは神様からの贈り物よ。」と涙をう かべながらたくさん、お話をしてくれた。予報接種のこともお願いしたら、快く引き受けてくれた。 タクシーの運転手さんのアブ・サリーヌさんは夕食に招待してくれた。宝物のような6人の娘さんを紹介して くれた。本当に素晴らしい家族だ。 翌朝、ノーランの検査に徳子さんと久美さんと通訳の女の子が付き添った。 ホテルでメールを打っていたら、検査してくださる放射線科のドクターから私に電話があった。 「何を調べたいのですか?」 「MAPCAがあるか知りたいんです!」 「OK !」 その日の夕方もノーラン宅を訪れた。アラビア語の通訳の女の子はお友達と用事があり、アブ・サリーヌさんが 英語を話せるので 一緒にきてくれた。 この日、ノーランのお母さんが別人のように明るかった。 「今日の検査で、サムシング・ニューなものが見つかった、と放射線科の先生が言っていた。」という。MAPCA だ!あったのだ。手術してもらえる。あとは出入国だ。 |
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アブはタクシーの運転手さんだから、トランスレーターとしてはすごくゆっくりだ。でも、一言一言、一緒に 共感しながら伝えてくれた 「心配しないで。きっとよいほうへ向かうよ。」 徳子が言った。 「みんなで一緒に幸せになろうよ!」 ノーランのお母さんは私のベビーにあげてと、何もない家の中を弾むようにさがしまわって、私たちに古いステ ッカーをくれた。 言葉をこえた心の声が伝わりあった。 日本へ帰国した。さっそく、ヨルダン大使館へ彼らの出入国について相談へ行ったり、国連に相談へ行ったり した。国連へはアポなしで行ったが、国連の建物のエントランスでUNHCRのたくさんの人たちに偶然出会い、親 身に相談にのってくださった。私の理解の限界すれすれの難しいことをたくさん教えてくれた。でもわかったこ とは、私たちが世界中を自由に行き来できることは本当に感謝すべきことで、戦争で難民や避難民になってしま った人たちにとって「国境、BORDER」というのはなんて厳しい、冷酷なものなのだろう、ということだった。 私たち人類は、かつて自分たちがつくってしまったものに、自分たちが締め出され、苦悩しているのだ。 地球はこんなにキュートで小さいのに。小さな女の子の命さえもこの冷酷さの前では、虫けらのように扱われ る。 これを壊す道具は何だろう。これと対極にあるものは何だろう。 ある日途方に暮れて松本院へ当直をしに「特急あずさ」に乗った。 私は間違った切符を買ったらしい。 親切な女性の車掌さんが 「とりあえず、ここに座ってください。」 ななめ前に見たことのある風貌に男性がいる。 あ!鎌田實先生だ。 私は鎌田先生に助けを求めた。 「なんとかしましょう。なんとか大丈夫と思うよ。」 なんて心強いんだろう。 長野県の夜を縦断する列車は、停車するたびに、マイナスイオンを運んでくれる。 先生は、そんな神さまのふるさとのような、湖の近くの小さな駅で降りていかれた。 帽子をかぶった後ろ姿に思わず手を合わせた・・・。 先生のぬけがらとなった座席に目をやった。あ!忘れものだ! とりあえず松本院にもちかえり、事務の女の子に「鎌田先生の事務所に必ず届けてね」、と渡した。 「これ、ゴミじゃないですか?」 勇んでもってかえったものはよくみると、スポーツ新聞やどこかの取材依頼の紙などが、まとめて「ぞうきん 搾り」になっていた。 加納事務長が翌日、確かに事務所に届けてくれた。 (捨てたはずのゴミを届けられた鎌田實先生は、後日東京で会った時 きさくな笑顔で「あのときありがとう!」と言ってくださった。) |
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・・・それから数日後、ノーランの家族がオーストラリア政府に受け入れられるかもしれない、という連絡が 入った。オーストラリアだったら、日本との行き来は容易だ。 超多忙な心臓外科の教授は、何度も私たちのために時間を割いてくださった。 あのMAPCAはあった!でも最後のエコー検査所見が送られてきた。 ・・・根治手術ができるかどうかにかかわる「三尖弁閉鎖」は・・・あった。手術はできない。 私たちは、ノーランを助けてあげられない。 わが子の病気の行く末をなかなか受け入れられない母親のように、私はたくさん、たくさんしつこく教授に質 問した。教授は懇切丁寧に長時間かけて教えてくださった。 でも、わかったことが山ほどあった。数日以内、あと1年以内の命といわれていた彼女だが、MAPCAがあるこ とで、手術をしなくても、もっと長く生きられることがわかった。また世界の最先端の医療で評価を受けること ができ、イラク戦争のせいで手術できない、というわけではなかったこと。だから世界をアメリカを日本を恨む 憎しみの連鎖をおこさないでって言えること。 |
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「MAPCAって、最初からあるのですか?それとも後からできるのですか?」と基本的なことを聞いた。「MAPCA があるということは1回手術したと同じといえる。生まれたときにその原型があり・・・」日本一の教授の口か
ら「神様はいると思う」と聞こえた。 手術はできない、とわかったのに、なぜか救われた思いがした。 いつも一緒にきてくださっていた森田先生も 「これは神様のおぼしめし、というようにイスラムの人はきっと、僕たち以上によくわかってくれるはずですね 。よかったですね。」 これをノーランに伝えないといけない。 アラビアの通訳の女の子に電話で少し伝えてもらった。お母さんはすぐに興奮したらしい。どうやって伝えよう か。現地のJIM-NETの人に手紙をたくそうか。携帯、パソコン、携帯メール、現代社会は、伝達手段はたくさん ある。でも、言葉って、文字ってすべてを伝えているのだろうか。ニュースの報道はあの国の本当の未来を伝え ているだろうか。 ある浦安院の当直の夜。このクリニックの看護婦さんは何で美人ばっかり入ってくるんだろう。森田先生が面 接するからかな。 徳子さんがやってきた。すぐに「ヨルダンへ行こう」ということになった。彼女はマザーテレサのようだ。 手術はできないけど、何歳かわからないけど、もっと長く生きられる。同じ病気の人で、手術しないで、今50 歳の人もいる。そのことを伝えにいこう。言葉では伝わらないことを、みんなでそばに行って伝えよう。時間を かけて伝えよう。家族の怒りも嘆きも希望も、すべて医師として受け止めよう。 「ノーランの残された時間を、希望をもって家族と生きてほしい。最後までノーランとかかわろう。」 4月。またあの4人が集合した。ヨルダンではJIM-NETのようこさんが迎えてくれた。「アラブのこどもと仲良 くする会」の人。パワフルな女性だ。 アラビア語のトランスレートはJIM-NETのゼキという人がしてくれることになった。ゼキは自身の娘さんをサ ラセミアで亡くし、現在息子さんがおなじ病気でヨルダンのキングフセインがんセンターに通うため、家族でイ ラクから逃れヨルダンに滞在している人だ。息子さんの経過は良好だそうだ。苦しい経験から、「明るい方を見 よう」という生き方になったという彼は、私たちの気持ちを1聞いて10わかってくれた。 いや、私たち以上に何か分かっている人だ。「『希望をもって』ってアラビア語でなんて言うの?」「アメル・ キャビール」 この人がトランスレートしてくれたら、きっと深い共感をもって話してくれるにちがいない。 |
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祈る気持ちでノーラン宅へ行った。まず「アメル・キャビール」と言った。話したのは私だが、全員が心を一 つにしていた。 なぜか、お父さんは最初から泣いていた。
お母さんは興奮していた。4年半も、もうすぐ死ぬといわれ続けていたのだ。当然だ。「なんでこの子はブルー なの」「いつ治るの」 お母さんの気持は痛いほどわかる。私のイマジネーションをこえた境遇だ。 でも・・・。ノーランは無邪気におもちゃで遊んでいた。 「生きよう」という決意さえ感じさせる、さまざまな形の「代償機能」という人体の奇跡をその中に内包してい るノーランの小さな身体をさして、「ノーランは病気だけど、ノーランの体の中では、ノーランを生きさせるた めに、いろいろなものが働いているのよ!」私の声は半分怒っていた。 ゼキは英語とアラビア語の同時通訳の資格ももっている人だから、私と同時に私と同じ口調で私と同じ方向を向 いて、そして、私と同じ気持ちで、彼女の両親にそれをアラビア語で伝えた。 何かが共鳴したようだった。何かの連鎖があった。 |
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お母さんは興奮するのをやめた。 私たちも大きな声を出すのをやめた。 みんなで「いつまで生きられるか、誰も言えないけど、ノーランが50歳よりもっと生きられるよう、私たちは
祈るから。」 そこにいる全員の瞼に、共鳴による化学反応の産物がそっと現れた。 ・・・すると、お母さんが「ハラース!」と叫んだ。「この辛い生活は今日で終わり!」キッチンのほうで「ガ チャーン!」とガラスの割れる音が響いた。 お母さんの顔が急に別人のように明るくなり、イラク国内や、海外の親戚中に、電話をかけまくった。「ノー ランは手術しなくてもいいんだって!」 お父さんはノーランを映したビデオを見せてくれた。「ノーランが死んだあとに思い出すために、ずっと撮っ てきました。でも、今日からそんなこと考えるのをやめます。私たちに希望をくれてありがとう。」 おじいちゃんは何度も祈るように手をあわせてくれた。チームみんなの心が通じた。 キャルのところへ行った。ノーランの家族の気持ちが安寧になってくれたと聞いて、とても喜んでいた。「僕 たちはアメリカで勉強し、ヨルダンで医師をやってきた。僕たちは手術ができないとわかったら、もうやること はそれまでと思っていた。でも君たち日本人は、残された時間に希望をもってほしいと、そのためにやってきた 。日本の人たちがよくわかった。本当に感謝してるよ。」 ノーランの家族の気持ちがハッピーになったと聞いて、ノーランを知らないゼキの友達のクルド人の家族が私 たちを食事に招待してくれた。そこでは、30人くらいのイラクから逃れてきた人たちが歓迎してくれた。「イ ラクのこどもたちを助けてくれてありがとう。」「ありがとう。」アラビア語で「シュクラン」クルド語で「ス パース」という明るい声が飛び交った。私たちは何も助けていないのに、こんなにたくさんの人たちが喜んでく れている。何か胸がキュっとなるものが連鎖している。 この家族のこどもたちと、「だーるまさんがこーろんだ」をやって遊んだ。この遊びがこんなにエキサイティ ングで楽しいことを久しぶりに思い出した。日本のこどもたち、コンピューターゲームよりおもしろいよ! 白血病でヨルダンで治療を受けるためにイラクから移り住んできた家族をようこさんに連れられて、3家族訪問した。 |
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ようこさんたちが支援しているアリくんのアパートへ行くと、たくさんのイラク人のこどもたちが遊び にきていた。いろえんぴつと紙をあげたら、みんな次々絵を描いて私たちにくれた。よく見ると、みんな「日本
とイラク、ラブ」 「日本とイラク、手と手をとって永遠に」と、みんな絵の中にかいてくれている。私たちはびっくりした。よう こさんたちの活動がイラクの病気のこどもたち以外にもつたわっているのだ。 日本でイラクといえば、連日の報道から怖いというイメージが大きい。でも、イラクのこどもたちの心の中で は日本への友情の心が育っているのだ。 |
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一生懸命、次々に私たちに伝えようとしている。そして、こんなに素朴 に純真に、平和を心に築こうとしているイラクのこどもたちがここにたくさんいる。これは絶対に伝えなければ
いけない、と思った。 翌日は、ノーランのお父さんとお母さんが私たちを食事を招待してくれた。みんなお金にだって困っているの に、素晴らしい手作りのイラクの家庭料理をごちそうしてくれる。 その日、ノーランと妹のサーファはすごく明るく、ノーランはずっと歌っていた。 「ハッピーバースデー・ツ ー・ユー」 「今日がノーランの本当の誕生日です。」とお父さんが言った。 小さな庭でみんなでひなたぼっこをした。 あれ? みんな驚いた。ブルーのはずのノーランのほっぺたがピンクに染まっている。 天気がいいからかな?それにしてもやっぱりピンクだ。 ほっぺの赤いスマイルマークを思い出した。この出会いが尋常でないとみんなが言っていた理由がそのときわ かった。 1万キロ離れたイラクの女の子と私たちはつながっていたのだ。 そして、ノーランを助けたいという思いが、私たちに、さまざまな人たちの良心との出会いをもたらしてくれた 。 お礼を言うのは私たちのほうだった。 私たちの世代はこれから、地球の危機といわれる状況に直面するかもしれない。さあ、「飛び道具」(これっ てなんだろう・・・=根治手術=最先端科学技術?)は与えられない。私たちはそのとき、どうしたらいいのだ ろう。 ノーランが教えてくれたような気がする。 この活動から、イラクの人たちの善良さをさらに確信することができたので、今回のイラク側国境の難民キャ ンプへ行くことは、何か大きな使命感のようなものを感じた。 スマイルから医師4人を含む7人が行くことを希望した。佐藤さんから、国連からセキュリティの理由で人数 制限をいわれるかもしれないので3人にしぼってほしい。と言われ、また例の如く新宿に全員集まってミーティ ングをした。みんなで話し合った。結局、全員希望した。 とりあえず、全員ノミネートしてもらうことになった。 日本小児救急医学会の日程が重なってしまったため、加藤隆(夫)と森田先生は日本に残ることになった。2 人でスマイルのスタンダード治療をつくることになったからだ。 イラク人難民キャンプへは私と徳子薬剤師と久美看護師と加納事務長と境野先生で行くことになった。境野先 生は、聖マリアンナの救急部の医長で、救急、小児科、小児外科、震災の救援など、何でもしっかりこなせる若 い名医だ。何年も前からスマイルで当直を応援してくださっている。とっても心強い活動になりそうだ。 ヨルダンの現地でJIM-NETの鎌田實先生や佐藤さん、国井看護師さん、神谷さんやカタログハウスさんたちと 合流し、地元ホテルのレストランでミーティングした。陽気なヨルダンの結婚式に出くわし、拍手をしてみんな で祝福した。 翌日と翌々日は、イラク人の家を何軒か訪問し、こどもたちと遊んだり、支援したりした。ノーランはますま す元気になって、最近発作をおこさなくなったという。 堺野先生チームは、都市難民26人を診察したそうだ。赤ちゃんのときに爆弾で大やけどを負い、皮膚が拘縮 して歩けない男の子など、老若男女、おおぜいが診察してほしいと集まったそうだ。 クリティカルな人について、後日カリタスに継続治療をお願いした。 さあいよいよ難民キャンプへ出発だ。朝4時集合。いつもイラクのこどもたちへのお薬を助けてくださってい る薬剤師のハイサムさんとバスの運転手さんも加わり、総勢11名のジャパニーズ・チーム(2名以外)だ!年 齢も職種も雰囲気も国籍も様々で、鎌田先生がこのチームを「絶妙なバランス」とおっしゃった。 砂漠の一本道に巨大で真っ赤な朝日が昇った。 |
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ハイサムさんに、私の白衣の肩にマジックで「イラクのこどもたちを助けたい」とアラビア語で書いてもらっ た。なんか、気合が入った。 「ビッドナー・ヌサイド・アットファール・アン・イラーク」と何度もハイサムさんが私に発音練習させてくれ
た。ハイサムさんのモチベーションもあがっていくのがわかった。 途中、前回UNの医師が1歳の水頭症の男の子についてレポートしたのをみんなで検討した。受け入れてくれる 国が決まらないから手術できないと。なんとかしてあげないと脳のダメージが進行してしまう。治療が40日以 上かかると、入院もさせてくれないらしい。この子はしっかり診てみよう。 途中のマーケットで、小麦を大量に買った。難民の人たちに届けるためだ。 |
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ヨルダンの国境をでるとき、警察や秘密警察や軍のひとたちがバスに入ってきてパスポートや荷物などを検査 した。ヨルダン国内でテロが起こって以来、警備が非常に強化されている。2年半前にきたときは、イラクとヨ
ルダンの国境は日本のパーキングエリアみたいに賑わっていたのに、今は閑散としていて、すごく警備が厳しく なっている。 バスに入ってきた人たちは、一見こわそうだったけど、お話するととってもいい人たちだった。この人たちが
体を張ってヨルダンの治安を守り、そのおかげで、ヨルダンが平和だから、こうやって世界中からNGOのひとた ちがやってきてイラクに支援することができる。とっても重要な人たちだ。「ウエルカム・ツー・ヨルダン!」
と言ってくれた。 それから、バスを降ろされ、警察の事務所でお茶をよばれ、アメリカ兵の護衛を待って、イラク国境へ近付き 、いよいよ難民キャンプへ降りた。 灼熱の砂漠の中でボロボロのテントが点在する向こうのほうから、5歳くらいの小さな女の子がかけよってき た。 会えた!と思った。おもわずいとおしくなり、だきあげハグした。すると、恥ずかしがっていたほかのこどもた ちも寄ってきた。小さな女の子の名前はイマーちゃん。立派にトランスレートしてくれて、お友達の名前をひと りずつ教えてくれた。小さな現地スタッフだ。 ずっと迫害されてきた人たちだ。警戒していた大人たちがその様子を見て安心して私たちに近づいてきた。 「ぼくたちは28年間難民状態だ。ぼくのお父さんは殺された。ここにいる人たちはみんな患者だよ。助けて ほしい。」 大きな袋に入れられた小麦や薬などが積み下ろされた。 医師の常駐しないここで、即席診療所となるテントに入った。診療の準備をしていたら、すぐに大勢の難民の ひとたちでいっぱいになった。 まず水頭症の1歳のコマールくんは・・・と。7日前から風邪症状、5日前から食べるたびに吐き続けており 、下痢も1日10回くらいしているという。触ると高熱もある。非常に不機嫌で泣き続けている。この感染はも う入院が必要だ。でも、難しいという。水頭症の治療の受け入れが難しいのはわかっている。でもこの子は今感 染症をおこしており、緊急に入院が必要だ。シビアな胃腸炎か、もちろん腸重積や髄膜炎や心筋炎だって否定し きれない。 でも入院の手続きに2週間かかるらしい。 |
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「またまたコッキョーのばかやろう!」と思ったが、言っている場合 ではない。お父さんもお母さんも泣いている。 「ここで今すぐ治療します。心配しないで。」 すぐに点滴をした。するとお母さんが何度も私をハグしてキスをした。 「この子はきっとよくなりますよ。」その言葉を伝えてくれた難民キャンプの若者がすごくうれ しそうに私たちに言った。 「僕の名前は○○だよ。君たちの名前は?君たちのことを忘れないよ。」 何かが連鎖した。 テントの中はとにかく暑い。コマールくんの熱もよけいに上がりそうだ。 私は自分のこどもたちが「母の日」にくれた、うさぎの絵が書いてある扇子をお守りに持ってきていた。夫とこ どもたちが私に内緒で買いに行ったのを思い出した。 |
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「お母さん、母の日のプレゼント開けてみて。」・・・ それでコマール君に扇いでやり、彼のお母さんにあげた。 そのことを薬剤師のハッサムさんがわざわざ伝えてくれた。
お母さんは「ありがとう。ありがとう。」と何度も言った。 きっと、私のこどもたちも喜ぶだろう。 気さくなアメリカ兵もやってきた。点滴しているコマール君のことを心配してくれた。 「僕も助けてあげたいんだ。でも僕には入院させてあげることはできない。そうだ、軍の看護師に、薬をもって こさせようか。」 彼らと難民の若者たちはとっても仲良さそうだった。 イラクのこと、宗教対立のこと、アメリカ兵のこと、遠い国で机上で議論ばっかりするのはもうやめて、現場 で彼らがどんなふうに助け合っているか、そんな場面もあることをみんなに知ってほしいな。 ふとテント内を見渡すと、すごくたくさんの難民の大人やこどもたちでいっぱいになっていた。鎌田先生も、 大忙しでたくさんの患者さんを診ておられる。境野先生もすごくがんばってる。チームのみんな、てんてこまい でがんばってる。許可された限られた時間内で、できるかぎりたくさんの人を助けなくてはならない。 よーし、私もがんばって診よう。胃腸炎の子が多かった。徳子さんたちがタンクの中の飲み水を調べたら、か なり浮遊物があったらしい。国連へのレポートに書いておこう。 病気の子には、もうその場で薬をあげた。薬剤師の徳子さんは白衣のすべてのポケットにあらゆる種類の薬を 入れていて、その場で患者さんに薬を手渡した。「人間薬局」だ。スマイルでもこれができたら、患者さんをお 待たせしなくてすむのに。 処置もすさまじい早さで行った。 ブラックジャックに出てくるピノコちゃんのように、小さな現地スタッフは診療所の中をちょこちょこ歩きまわ っていた。よく見ると、そのおしゃまな助手はもっとかわいいお洋服に着替えてきていた。 あとから聞いた。15歳の女の子が診療所に入ってきた。 久美さんが「3人のお医者さんの中から選べるよ。」 その子は境野先生がいい、と言ったという。境野先生はもちろん男性だ。 イスラムの世界では、女性の患者さんは女医が診るのが原則と言われている。 「政治」や「宗教」や「経済」ではなく、私たちは「苦しみを取り除いてあげたい」という人類の共通語である 「医療」で変えていくんだ、と決意したのを思い出した。 それを聞いて「医療が宗教を超えた!」ととってもうれしくなった。 若しくは、その子が私のことを一目見てよっぽど嫌いだったか、のどちらかだ。 |
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イラクの国内に少し入ったところの民家に6家族が逃れていて、その中に6か月の妊婦さんがいる、ということ で、私と真紀さんとハイサムさんは、秘密警察の車にのせてもらって行った。
中にいくと、たくさんの女性たちが歓迎してくれた。 その妊婦さんは、妊娠経過は良好なものの、ひどい貧血があった。肉や新鮮な野菜などあまり食べていないとい
う。また、病院で出産することはできないのに、破傷風トキソイドもうったことがない。 鉄剤とワクチンをハイサムさんにお願いした。国境越えがまた難しいこともあるので、国連へのレポートにも書
いておこう。 ユニセフはバース・コントロールという。 現実、こんなところで赤ちゃんが生まれたら、確かに母子ともに危険 だ。でも、誰か詩人の詩を思い出した。「こどもが生まれるということは、神はまだ、私たちに失望していない、と いうことだ。」 こんなところに「希望」があった。 |
上手な日本語で「ダルマさんころんだ」を 遊ぶイラクの子供達と一緒に |
そこでも何人かのこどもの診察をした。一人、鉄の入ったこども用のビタミンシロップをもっていた。私はその 子に妊婦さんのお腹をさして言った。
「それをお友達とシェアしてね。」 そこを去る時、すべての女性とハグした。誰かが「アイ・ラブ・ユー、ジャパン」と言ってくれた。いつか、日 本に行きたいと言った。 もうすぐオーストラリアに受け入れてもらえそうだと言っていた。 みんな幸せになりますように。 赤進月社のイラク人医師がやってきた。いい人だった。難民のことをしっかり診てくれているようだった。握手 してわかれた。 イラクから出る国境のところで車から降ろしてもらった。たくさんのアメリカ兵たちがやってきて、歓声をあげ てくれて握手した。 歩いていると、ジャパニーズチームはみんなキャンプからひきあげていて、バスに乗っていた。バスに乗り込も うとすると、キャンプから、たくさんの難民の若者たちが走って追いかけてきた。みんなももう一度バスから降 りた。 何度も何度も握手して、「ありがとう。」「ありがとう。」と言ってくれた。 何もしてあげられないのに、うれしかった。 コマールくんは元気になって点滴全部終わり、排尿もたくさんあり、飲めるようになったらしい。よかった。 状況はすさまじいのに、なんか、あたたかーいものをみんな胸にして、ノーマンズランドを去った。 国境を越えてヨルダンへ再び入るのに、また時間がかかった。 許可のハンコを押す人がお祈り中で、すべてが止まっていた。 私たちは、スタンドへ行ってジュースやケーキを食べた。国境のずーっと向こう側で、トラックから降りて何度 も何度も頭を地面につけてお祈りしている人の姿が夕日を背にして遠くに見えた。真紀さんのおごりのケーキは 最高においしかった。 死んだおじいちゃんが昔、毎朝晩仏さまの前でお経を唱え、何度も何度も頭を畳につけて礼拝していたのを思い 出した。あのときも、その横でわたしはお供え物のおまんじゅうやケーキを食べていた。 ヨルダン国内のルウェーシッド難民キャンプへ寄った。今回は時間がないので、支援物資を届けるだけで、診 療はしない、ということと聞いたが、もし、診療ということになった場合に備え、診察バッグを持ってバスから 降りた。 このキャンプへは、私は2年半ぶりだけど、結構みなさん覚えていてくれて、うれしかった。徳子さんや久美さ んは、何度かその間に行っていたので、みんなすごく歓迎していた。 でも、去年デイアラちゃんという14歳の女の子が亡くなったところのご家族のテントに入ると、お母さんがうつ 状態になっていた。デイアラちゃんは、ノン・ホジキン・リンパ腫という悪性腫瘍で、十分な治療も受けられな かった。 戦争がおこらなかったら、早く十分な治療をしてもらえただろうに。 最後は真紀さんたちの尽力で、ヨルダンの病院へ入院させてもらえたが、手遅れだった。でも、ようこさんや真 紀さんが毎日お見舞いにきてくれるのを喜んでくれていたそうだ。 亡くなる数日前という写真を見せてもらった。信じられないほど生き生きした表情だ。いかにも私の一番上の子 と同じ年ごろらしい笑顔で、お母さんの気持ちをおもうと、つらかった。うつという状態は、神様がこんな悲し い現実をしっかり見なくていいよ、としばらくお母さんにくださったせめてものギフトにさえ思えた |
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テントを去るとき、お母さんが私を強くハグしてくれた。デイアラちゃんの小さな弟が元気にはしゃいでいた。 お母さんは、この子たちのためにも、しっかり生きようとしているんだな。受け入れ国もスウェーデンが決まっ たそうだ。 つい、「アメル・キャビール」と口から出てしまった。 ご家族はずっと手をふってくれていた。 ルーソンちゃんのご家族のテントに入った。 うってかわって、ものすごく明るい家族だ。それにインテリジェンスもとっても高い。私たちのためにバーベキ ューの準備をしている、と言う。 でも難民キャンプまできて、ごちそうになるわけにはいかない。 「イラク人はね、みんな、日本人が好きなんだ。テレビで日本のことをやると、みんな喜んで見るんだ。」 |
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日本のテレビは、イラクのことを伝えるときに、伝えるほうも見る方も、みんな無思考でステレオタイプにな り、頭を閉じてしまっていないだろうか。
私も人のことは言えないが、 「水戸黄門」のほうがよっぽどボケ防止になる。 この無邪気な友情にわたしたちは、絶対にこたえなければならない。 さあ、もう暗くなった。アンマンに戻らなければ。 「え、もう帰るの?今日はクリニックはやらないの?」とルーソンちゃん。 なぜか、今日は診療をする、と難民のひとたちは思っており、朝の10時からみんな待っていたそうだ。ルーソン ちゃんも自分がトランスレートするってはりきっていたそうだ。 「ちょっと、待って。この2人だけは診て。お願い、私、約束したのよ。」 高血圧の男性は鎌田先生が診てくださった。 鎌田先生は、結局、ルウェーシッドでもたくさんのテントに連れていかれ、患者さんをたくさん診察されたそう だ。 もう一人・・・14歳の甲状腺腫の女の子がいると。 あ、もう時間だ!もうみんなバスに乗り込んでしまった。 遠くのテントから息を切らしてその女の子が走ってきた。 バスの前で触診し、ルウェーシッドの病院で検査してもらった診断書をもって鎌田先生にコンサルトし、「心配 ないよ。」と告げた。 バスは出発し、なごりを惜しみながら手をふった。 「私たちは、きょうだいよ!」と彼女らが叫んでいた。 こんなところに、私たちの家族がいる。 帰途についた。 鎌田先生が「みんな、がんばったよね!」と言ったら、みんな歓声をあげた。 みんな、300パーセントの力を出したと言える。 帰りのレストランで、反省会をした。 わたしたちは少しハイになり、踊ったり食べたりした。 それぞれ11人が感想を述べた。 一人抜けても成り立たなかった活動だった。 ハイサムさんは 「自分はヨルダンに住んでいながら、こんな大変な目にあっている人たちに初めて出会った。そして、人に親切 にすることの素晴らしさを知った。 |
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このチームと活動できたことに感謝しています。私は離婚をして、こどもた ちにとっていい父親ではないけど、こういう活動をすることで、いい父親になれたと思います。あの人たちを助
けてあげた後に、自分のこどもたちを父親として助けてやりたい。」と英語で話した。 素晴らしい父親だと思う。 真紀さんは、みんなに日本語でトランスレートしたが、
「ハイサムは、独り身でいろいろなところへ行く僕の生き方がかっこいいと思って、自分もとうとう離婚してし まった。」とかなり意訳していた。 真っ暗な砂漠のまっすぐ一本の帰り道。 バスの窓から空を見上げて、おもわず悲鳴がでた。 「こんなきれいな星空、はじめて!」 水平線まで星が、立体的に見えた。 ここが、宇宙空間である、と実感できるほどの美しい星空。 降るような星星が、私たち地球をまるで見守っているかのようだ。 |
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私たちは、こんな小さなところで、苦悩しているんだなあ。 宇宙ってなんて美しいんだろう。 ここに夫がいてくれて、ミスチルの歌が流れていたらどんなにロマンチックだろう・・・・と思いながら、砂埃
でボロボロになったケーシー白衣を着替えもせず、ポンコツのエンジンの音を聞きながら、バスの座席に体育座 りをしてずーっと飽きずに星を見ていた。 今見ている星の光は、何万光年も昔に放った光なんだなあ。 私の心は一瞬にして、1万キロ離れた私の寝室で寝ている夫と子供たちのところへ戻った。 アンマンに着いたのは午前2時だったが翌朝もあわただしくアポと帰国の準備に追われた。 私は、どうしても、最後にバスの前で診察した子が忘れられなかった。 ルウェーシッドには医師もおり、医学的には問題なかった。 でも、あの14歳の女の子の私たちが出発する前に息を切らして走ってくる姿が、そのイメージが頭から離れな い。 病気じゃない。 何か助けて、と聞こえるような気がする。たくさんの人たちから。 徳子さんも真紀さんも同じ気持ちだった。 9月にまた行くことにした。 帰国後すぐに真紀さんを通じて国連から連絡があった。 たくさんの難民の人から、国連に電話があり、みんな、このジャパニーズ・チームにとっても感謝していると。 最後にコマールくんは、いったんよくなったが、また再び吐き続けているが、どうしたらよいでしょうかと。 日本からすぐにメールを送った。 「彼は今すぐに入院が必要です。 どうか、彼の命を助けてください。」 すぐに国連のひとが赤進月社に緊急メールを送ってくれた。私のメールも転送して。「どうか、彼を助けてくだ さい。」と書いてくれていた。 また、何かが連鎖した。 小さくても小さくても、この連鎖を広げていきたい。 ※ この子は結局、ヨルダン政府の許可が下りず、国境をこえることができず、病院へつれていってもらえませんでした。
現地の難民の人に、ようこさんやまきさんに連絡をお願いし、OST療法(経口補液療法)というのを伝えてもらいました。
清潔な水1リットルに砂糖大匙4杯半、塩小さじ半分、を溶かし、少しずつ与える、というものです。
この簡易な治療法で、途上国の下痢などによるこどもたちの死亡率が半分に減ったといわれ、日本でも最近見直されている治療法です。
コマールくんは、大変日数はかかりましたが、少しずつ元気になって、食事もとれるようになり、とりあえず、この急性疾患については, 多くの人たちの連携により、命が守られました。
水頭症については、JIM-NET会議でも検討中です。
この慎ましく小さな良心的な家族を、日本の政府が受け入れてくれないかな、と思います。心を開いてほしいです。 うさぎの絵の扇子があの子を守ってくれますように・・・。
※朗報!このコマールくんは、私たちのアピールも手伝って、国連や赤進月社などのおかげで、ついに、ヨルダン政府が受け入れ、ヨルダンの病院で手術を受けさせてもらえることになりました!
小さくても地道にこの活動を続けていきたいと思います。
ただ、手術は、脳の中にチューブを入れ、脳室内にたまっていく髄液を腹腔内に逃してあげるもので、キャンプへ戻ったあとは、チューブの挿入口からの感染などの心配があります。やはり、人間らしい生活のできる第3国に受け入れてもらわなければいけません。
ノーマンズランド・・・「誰もいないはずの国」に「いる」この人たちを世界は見捨ててはいけないと思います。たくさんのこどもたちがいて、たくさんの未来があるはずだからです。日本人にもできることはあります。
9月にもみんなで会いにいきます。
「世界は君たちを見捨てていないよ」 と伝えようと思います。
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