第9回イラク難民医療支援レポート 
                
                医師 加藤ユカリ


 「I  RESPECT YOU. あなたたちを尊敬します。」

たくさんの薬も、医学知識も、お金も、技術も用意した。

あの人たちに、やってあげられることをたくさんやってあげたかった。

でも、結局私たちがそのイラク人家族に置いて帰ったのは、

その言葉だけだった。

 

 20083月スマイルこどもクリニックがイラク国境・ヨルダンへ赴くのは、今回で9回目になる。

 イラク開戦5周年。世界の人たちの記憶からどんどん薄れていくけど、彼らがいまだにタフな生活を続けているということをたくさんの人たちに現場から知らせなければいけない。と同時に、彼らがこんな状況の中でも、どれほど「高貴な光」を放っているかを伝える。そういうミッションが私たちにはある。

 暗闇に耐えて放つ光。

 一瞬でも小さくても、見えた光をしっかり伝えていこう。

 暗闇が消え去るときが必ずくるから。

 

 その3か月前。200712月、ヨルダンの都市難民訪問は、
私の一番下の娘が熱を出してしまい行けなかった。薬剤師のとくこさんと
看護師のくみさんが、
2人でがんばって行ってくれた。

 

卵巣がんのハニーンをお見舞いし元気だったそうだ。日本で留守番
していた私に電話をつないでくれてハニーンとお話ができた。


スマイルのスタッフからの色紙に喜ぶオーストラリア受け入れが決まったノーランの両親と

 ハニーンは「シュクラン、シュクラン。(ありがとう。)娘さんの風邪は大丈夫?」と気遣ってくれた。ハニーンのお母さんも電話にでてくれた。「シュクラン、娘さん大丈夫?」

 私の娘は風邪をひいていた。そして・・・ハニーンのお母さんの娘は「がん」だ。

それなのに自分たちのことはさておいて、明るく私の娘のことを心配してくれた。

 

 一方、日本のスマイルこどもクリニックは3院で24時間、当直診療、経営、安全管理、人事・・・いろんなことが大変だ。

なにがおこってもどんなふうになっても、私と夫の責任だ。

でもやめてしまったら、夜間の小児救急難民の子が大量にでてしまう。

「スマイルがなかったらこの子は死んでいました。」

わたしたちには患者さんたちのためにも、スタッフたちのためにも「やめる」という選択肢はない。

 だから育児に仕事に、疲れ切っていた私を夫は青い海のモルディヴへ連れて行ってくれた。

 白い珊瑚でできた赤道に近い幻想的な海で一日中二人っきりで4日ほどすごした。とっても幸せな時間。夜は星しか見えない。宇宙空間にいるっていう実感がわいてくると、自分が自分に戻っていくのがわかる。いろんなことが小さく見え、とってもパワーアップして日本に戻り、年末年始の救急体制も無事に乗り切り、改定となったAHA(アメリカ心臓病協会)認定の小児救命の試験も、とっても楽しくこなし、調子がもどってきた。

 でも、猛勉強している間、「ハニーンが元気になりますように」と祈るのをしばし忘れてしまっていた。

2008121日。「ハニーンが亡くなったそうです。」

とくこさんから電話があった。しかも、ヨルダンの病院に診療費の残りを払わないとハニーンのご遺体も返してもらえず、お葬式もできないと。毎日お見舞いに行っていた加藤たけくんは、ギャランティーとして、パスポートを病院に取り上げられたと。

戦乱のイラクから逃れた都市難民の病気の少女が何をしたというのだろう。彼らへの異国の社会の冷徹さは想像を超える。

とりあえず、佐藤まきさんがなんとかしてくれた。

ハニーンは亡くなる直前は痛みに苦しんだというが、それまでは、がんが全身に転移しているのにもかかわらず、主治医が不思議がるほど元気だったそうだ。

亡くなる前の日まで、将来、絵描きになる夢を抱いて、毎日たけくんの
もってくるスケッチブックに大好きな絵を描いていた。

そんな話を聞くと、悲しいけど救われる想いだ。

 

でも、3月にもう一度会いたかった。

12月に行けなくてごめんね。ハニーン。

4日後、鎌田實先生がトランペットの坂田明さんの
バレンタイン・コンサートを東京で開いた。


ハニーンのお墓参り。オリーブの木を植えた

 ハニーンたちがチョコレートを食べているポスターがたくさん貼られ、たくさんの人たちがイラクのこどもたちのためにチョコレートを買ってくれた。

 トランペットで奏でられた「ひまわり」という曲は、あたかもハニーンや亡くなったこどもたちへの追悼のように館内に悲しく響いた。

 私は、ハニーンが作ってくれたかわいいビーズのネックレスを胸にさげていた。

イラク全権大使の奥さんが、それを手にとって泣いてくれた。

 

 そして20083月、とくこさん、久美さんと私のスマイル医師団は、ヨルダンへ向かった。今回の難民キャンプへはとくに意気込んでいた。現地でまきさんとたけくん、ようこさん、鎌田先生と合流した。

鎌田先生は今回は桜色のセーターを着て春のいでたちだ。

鎌田先生のベストセラー「がんばらない」も「なげださない」も大好きだけど、とくに鎌田先生のかいた絵本が私は好きだ。「この国がすき」お孫さんの名前は、原爆のような悲劇をもう繰り返さないという祈りをこめて「爆」ばくくん、と名付けられた。

先生は「爆くんと爆くんと同じ世代を生きるこどもたちを守りたい。だから憲法9条を守りたい。」と書いておられる。

だから、私は鎌田先生のことを大先輩の医師として尊敬するだけでなく、こんな時代に3人の子供を産んだ母親としても、鎌田先生には祈る気持ちになってしまう。

私もピンクのセーターを着ていたから、くみさんが私と鎌田先生を「ピンキーズ」と呼んだ。

 

最初のミーティングで、まきさんが言った。「ヨルダンの内務省からノーマンズランド入りの許可が下りないかもしれない。」

 「現地の難民の人たちは?」

 「たくさんリクエストがきている。もちろん、みんな待ってるよ。」

 どうしたのだろう?いつも薬を届けてくれるハイサムの薬局へ行った。

彼が内務省への申請を出したという。

 「再度申請だしたよ。でも、これは、ぼくたちの安全を保障するためのことなんだよ。

 ぼくたちの活動に問題はないよ。このジャパニーズ・チームにはとっても感謝していたよ。いろんな国からNGOが来るけど、とくにジャパニーズ・チームはアクティブだって、感謝されてたから、大丈夫だよ。お役人にはいろんなプロセスがあるんだよ。」

翌日、現地の国連UNHCRの事務所を訪問した。

ディレクターのひとは、「そうですか。国連の職員でもノーマンズランド入りは難しくなってきています。

でも、みなさんにはとっても感謝していますよ。本当に助かっています。」

来週、UNがノーマンズランドへ行くらしい。まきさんと、せめて薬だけでも届けてもらおう、ということになった。

 まきさんやたけくんはキャンプの人たちと携帯でキープ・イン・タッチしていて、

「とくに今、大病の人はいないみたい。」

 少し安心した。

 「2回診察して、2回レポートに書いたのだけど、まだ放っておかれている子がいる。ノーマンズランドのキャンプにいる7歳の女の子で、心雑音があり、精査必要な子がいる。今は元気だけど、ほっておくと後からチアノーゼなどの症状がでる心房中隔欠損症などの心臓病の可能性も否定できないから、せめてエコー検査だけでも受けさせて。必要があったら、手術についても考慮してあげてください。」とお願いしたら、快く了解してくれた。とっても気になっていたから、とっても安心した。

 次回の申請は早めにプロセスを踏んで、確実に入れるようにしよう、
ということになった。 そこで、都市難民を回ることになった。

 イラクから70万人、100万人といわれる人たちがヨルダンへ逃れ、
アンマン市内でかくれてくらしている。もちろん医療は受けられない。
働いたらみつかってイラクへ戻される。イラクに帰ったら殺される人もいる。

イラクから逃れている人たちは難民キャンプだけではない。
そんな世界から見捨てられた人たちがたくさいるのだ。
シリアにも300万人いるといわれている。

到着した夜、心臓病のノーランの両親にであった。

オーストラリア受け入れが決まり、5日後に出発を控えている。


国連UNHCRのディレクター・ムハンマッドさんと

「ノーランはもう元気で発作を起こさない。スマイルたちがノーランの心臓に、MAPCAというハッピーな血管を見つけてくれたから。スマイルさんたちに1000倍の神のご加護がありますように。」

何もしていないわたしたちに、こんなに感謝してくれているこのお母さんのほうがよっぽど立派だ。

一度はオーストラリア政府に「病気の子をもつ家族を受け入れることはオーストラリアのコミュニティに大きな負担がかかる。」と冷たく受け入れを拒否された。

そこで私たちはオーストラリア政府に提出する診断書を書きなおしてあげた。

「この子は手術する必要がありません。ただ、毎日飲まないといけない薬がありますが、そんなに高額ではありません。どうか、この愛すべき少女と良心的な家族を助けてあげてください。」などと書いたような気がする。

オーストラリア政府はこの家族を受け入れるだけでなく、長時間、飛行機で移動するノーランのために、途中、アンマン、中東のどこかの都市、シンガポール、シドニー、メルボルン、と何度もトランジットさせてくれ、それぞれにドクターを待機させてくれる、そんな温かい計らいまでしてくれたのだ。

去年、ノーランのことで四苦八苦していたとき、「国境」というバケモノを呪った。

こんな小さなかわいらしい少女さえも虫けらのように扱う「国境」を。

でも、今は違う。今からノーランはたくさんの「国境」を堂々とはばたく鳥のように越える。

ノーランはいつも私たちに笑顔と希望をくれる。

 

そして、こんな小さなわたしたちの書いた小さな紙切れが大きな結果をくれた。

だから、日本人が信念をもって何かを言えば、世界はもっと変わるはずだ。

日本はどこにも迎合することなく、「ノー」と言ったり、助言したりしていいのだ。

日本人はもっと世界に向かって自信をもって、発信しようよ。

 

現地NGO・カリタスの診療所を訪問。

この組織は、ずっとヨルダン国内に逃れてきたイラク人の都市難民を支援している。

国連など大きな組織が支援するなかで、支援しきれない、線引きからはずされ困っている「こぼれた人たち」を支援している。そんなところに私たちは共感している。

日本のスマイルも夜間行き場のない小児救急患者を受け入れたり、受け入れ先に困った救急車を受け入れることにやりがいを感じて、みんながんばっている。さらに松本院では、ブラジルから出稼ぎにきて1日でも仕事を休めばクビになる、そんな人たちが夜、「マリコ先生、マリコ先生」と家族みんなで松田マリコ先生やスタッフたちを頼ってやってくる。

 Jim-netの支援もイラクの4つの基幹病院に薬を送る、という大きなことから、お父さんが亡くなった、などの理由で病院へ通えない子の交通費という小さいけど重要なことも支援する。イブラヒム先生は、イラク国内で病院さえも行けない癌らしきストリートチルドレンをピックアップして病院へ連れていき、支援する。

 「こぼれた子」を助ける。だからスマイルは、jim-netに、カリタスに、協力する。

 日本でときどきやるアラビア雑貨チャリティ・イベントの売り上げもjim-netのほか、全額カリタスに寄付する。カリタスのドクターが、前回のスマイルからの送金でこれだけの薬が買えました。と見せてくれる。

「スマイルじゃないんですよ。何百人もの日本人が応援してくれているんですよ。」

とチャリティの様子を写真で見せてあげたり、日本のこどもたちがイラクのこどもたちに書いたメッセージ・カードを託した。

新しいディレクターのスハッドさんも、カリタスのスタッフのひとたちもとってもうれしそうだ。

待合室の患者さんもうれしそうにしてくれる。

カリタスのオフィスの壁には、スマイルマークのステッカーが貼ってある。

こんなにがんばっているカリタスでも「できるだけ多くの人にいきわたるように。」と

どうしてもその線引きからさらに「こぼれる人」がでる。カリタスにだって予算の限界がある。そしてそのこぼれた人たちを、今度はそれをスマイルは支援する。

 スマイルの予算は?だって?

 たしかにスマイルは年間10万人以上の患者さんが診療に訪れるにもかかわらず、3院のうち2院は大きな赤字だ。借入もしょっちゅうしなければいけない。

でも、スピリチュアルな加納さんがよく言ってた。「聖書にこんな話があるんですよ。最後の晩餐の夜、一切れのパンをみんなで分けた。たった一切れなのに、1万人のひとがお腹いっぱいになったそうです。線引きなんかしなくても、みんなにいきわたるのですよ。」

相対性理論によれば、「時間の長さ」は相対的だ。

「時間の長さ」が相対的であるならば、「パンの量」も、「お金の量」も、「体重計の目盛り」も、「女性の歳」も、相対的であるはずだ。

すなわち、それらは自由に伸び縮みする。

すなわち気にしなくていい。

そうだよね、アインシュタイン博士!

 

卵巣がんのハニーンもヨルダンの王室の支援が切れてしまったあと、カリタスに拾われ、でもここでも、「ステージUまで。化学療法は一人2回まで。」という線引きからこぼれてしまった。彼女のステージはもっと進行していて、化学療法も2回終わったところで治療中断となっていた。そのときにハニーンと出会い、それをスマイルが支援させてもらった。

逆に、赤ちゃんのときに爆弾でやけどを負い、成長とともに皮膚がひきつれて歩けなくなっていたハイダル君の手術は、スマイルがお願いに行ったら、カリタスが迅速にやってくれて、手術代も全額もってくれた。

 NGOのパートナーシップってとっても素晴らしい。

 これからも日本でチャリティやって、たくさんの日本人のひとたちの共感を集めよう。

 

 いよいよ翌日は、ハニーンの家を訪問。

パレスチナ難民のひとたちが住む貧民街の小さな路地を下っていく。

 ハニーンの家に入る。元気になったと聞いたお母さんがくみさん、とくこさんと抱き合い、みんな泣き出した。

 悲しみを我慢していたのだろうか。お母さんと抱き合ったら、彼女の感情が、せきどめが外れた川のように、自由になって私の心に押し寄せてくる。

 こんな悲しみは初めてだ。

 ハニーンがいなくなった後の家の中を小さな弟や妹がはにかみながら無邪気に走りまわる。

 お父さんは悲しそうで生気がない。
「ハニーンはドクトーラ・ユカリに会いたがっていたの。」とお母さんが言った。

 たけくんが何度も教えてくれたとおりだった。

  12月に会いにいけなくてごめんね。

「ハニーンがドクトーラ・ユカリのために買ってきて
渡したがっていたものです。」

  黒いスーパーの袋をもらった。
「ハニーン、自分で買い物にいってきてくれたんだ。いつ買ってくれたの?」

お母さんは悲しそうに答えた。「12月にドクトーラが来るはずだったとき。」

袋の中身は、旅行用のスリッパ、石鹸、シャンプー、かわいい髪どめ・・・。

  「ハニーン、私のこと待っていてくれたんだ!」

ハニーンが亡くなったことを改めて実感した。


ニノちゃん

自分の体がこんなに癌に蝕まれているのに、自分より、弟たちを、私の娘を、そして来るはずだった旅中の私を気遣ってくれた優しい11歳の女の子。

たけくんがお見舞いに行くとハニーンは体もつらいはずなのに、冷蔵庫からお菓子やジュースを出してきてくれたそうだ。

戦争がおこらなかったら、もっと長生きしていただろう。

戦争で母国を追われて、お金がなくて何度も治療途中で病院を追い出された。

なのに何の泣き言もいわずに、周りのひとたちを気遣って死んでいったこの小さな女の子の優しさは・・・暗闇の中で崇高に輝く光だ。

お母さんが言った。夢の中にハニーンが出てきたの。こっちへいらっしゃい、と言うとハニーンは「こっちのほうが居心地がいいから行きたくないの。でも、私のお墓にオリーブの木を植えてほしいの。私の代わりに育ててね。」

お母さんの用意したオリーブの小さな植え木をもってみんなでお墓参りに行った。

ハニーンのお墓にオリーブを植えた。

 

一緒に供えた花束のメッセージカードにたけくんとハニーンのお母さんがメッセージを書いた。

たけくんが悲しそうに教えてくれた。お母さんは「ハニーン、天国でまた会おうね。」と書いていた。

 

さあ戻ろう。

あれ、まきさんがいない。ひろーい共同墓地でまきさんは誰かのお墓を探していた。

2005年にノン・ホジキンリンパ腫というがんで14歳で亡くなった女の子ディアールちゃんのお墓だ。

「このへんだったと思う。お葬式もできなかったんだ。ただの板きれに名前を書いただけのお墓だったんだ。」

 整然とならぶお墓の中に、土が盛りあげてあるだけのところがあった。「ここかもしれない。」と言って、まきさんとイブラヒムと私は、静かにお祈りをした。

 

 帰りの車の中で、「ディアールのお墓にもオリーブを植えてあげようよ。」

「でも、どのお墓かわからないよ。・・・そうだ、あのときの写真かビデオを見たらどのお墓かわかるかもしれない。」

ディアールは難民キャンプにいたイラクの女の子だ。戦争前に癌を発症したが、戦争の混乱で十分な治療が受けられず、亡くなってしまった。

難民キャンプの人たちはヨルダン国内に入るのは難しく、きちんとお葬式をしていないから、ずっとお母さんはつらい状態が続いていた。ちゃんとお別れをしていないままなのだ。

まきさんもずっと彼女のことが気になっていた。

まきさんは、この5年間に亡くなったイラクのこどもたち、みんな気になっている。

だから、ずっとこどもたちの絵を大切にしている。

だから、この5周年は「砂漠の待雪草作戦」と銘打って、特別な使命感をもっている。

「もうすぐ春だよ。」と希望を伝える花言葉。その花をイラクにもたらそうとしているのだ。それがこのチームだ。

もうこれ以上こどもたちを死なせてはいけない!

 

アハマッド・ゼキの家で夕食をいただいた。

この家族と過ごすとほっとする。ゼキの娘のバスナという女の子が躍ってくれる。

でもこの日はじめてゼキが泣いたのを見た。

イラクから逃れてきた人たちは、みんな明るいけどつらいんだ。

逆を返せば、つらいけど明るく振る舞っている。

この家のキャリーヌという男の子は私の真ん中の息子と同い年だ。

息子はいつも私がヨルダンに行くたびに一緒に行きたいと言う。
キャリーヌたちと遊びたいと。キャリーヌが覚えたての英語で言った。

I  WANT  TO  PLAY  WITH  RYUTARO.

いつか、一緒に遊ばせたいね、ゼキ。


将来の女医さん・アヤちゃん

 多動・学習障害と診断されたニノちゃんという4歳の子のところへ行った。

両親がその子の対応に疲れ切っているという。

前回訪問したあと、たけくんが何度も訪れてくれていたか

ら、お父さんはたけくんをとっても信頼しているようだ

12月はとくこさんとくみさんが訪れ、二人ともとっても気になっていたから、「両親の対応のしかた」について専門の先生に聞いたり、調べたりしてきた。

訓練や両親の対応で本人の療育ががぜんかわる疾患なのだ。

 案の定、両親は、二人で口々にニノの一挙手一投足を注意し叱っていた。

私たちがどんなアドバイスをしても、「そういうわけにはいきません。」というような答えをする。

とにかく行動でしめそう。

わたしたちは、ニノが何かをやるたびにいちいち「すごーい、よくできたね!」とみんなで手をたたいてほめた。

ヘレンケラーのサリバン先生みたいに、1時間以上、同じ言葉を繰り返し、根気強くほめ続けた。お父さんやお母さんの脳裏にこの言葉を焼き付けたかった。

ニノとお父さんたちの表情がだんだん明るくなっていく。

お父さんたちもほめだした。「よくできたね!」「よくできたね!」「よくできたね!」

ニノはとってもうれしそうに、何度もお父さんの顔を見ながら、もっとほめられたくて、何度もポップコーンをたけくんの口に入れてあげていた。

1時間以上ポップコーンを口に入れられ続けていたたけくんは顔は笑顔だったが、涙目だった。彼は根気強いサリバン先生以上だ。

この家族はイラクの中でも最もひどく破壊された地区からヨルダンに逃れてきた。

混乱の中で、何者かに、小さなニノは頭を殴られたのだそうだ。(彼女の1年以内の頭部MRIは正常)お母さんはそのむごい光景が忘れられないという。

家族中がPTSDのような状態だったようだ。

おむつも買えない厳しい生活の中、ニノから目が離せないから、どこへも出かけられないという。

「今、みんなでニノみてるから、お父さんとお母さん、二人で食事でも行ったら?」

 「そんなことはできません。」

二人は、ずっとニノを見続けている。

気分転換しよう、とも考えず、ひたすら、大事な大事なニノとその弟のめんどうを見ている。

わたしたちは、箇条書きにした、「家族への指導」の紙をもってきていた。彼らを指導しようと思っていた。確かにその指導の内容は正しい。でもそれが正しければ正しいほど、この両親の計り知れないほどの努力を否定することになる。戦争から逃れ隠れ住んでいる。この指導書がこの環境におかれた彼らに適応できるのだろうか。

私たちは指導することをやめた。

「すごいね!よくやってるね!」

その言葉が一番必要なのはこの両親だった。

「お父さん、お母さんのことを尊敬します。わたしにはできません。」

そのあと、お父さんもお母さんも明るくなり、なんか、とっても楽しい家族になってきた。

ニノの弟が転んで顔面ぶつけたので、見てほしいと言った。

1歳の弟は鼻根がはれて、上唇から出血していた。ニノのことで頭がいっぱいでこの子はほっておかれてたんだ。

処置して薬をあげた。鼻骨骨折のように鼻は曲がってはいないが、もっと腫れてきたらレントゲン撮らなければいけないくらいの打撲だった。

弟のことに気をまわせるくらい、両親の余裕がでてきたかな。

 また遊びにきたいな。アメリカへの受け入れ、かなったら、ニノは学校行きながら、きっともっと楽しく過ごせるんだろうな。

 このような子の対応が専門で、慣れているようこさんが、また訪問してくれることになった。ようこさんなら、完璧にこの家族を明るくしてくれる!よかった!ほっ!

 

骨肉腫で片方の足を切断し、成長とともに義足を修理しにくる女の子がいる。

10歳のアヤちゃんだ。

お父さんと一緒にバグダッドからまきさんがヨルダンにいるときにあわせてやってくる。

アヤちゃんの親族は最近、2人も誘拐され、一人は多額の身代金を要求され無事帰された。身体には拷問のあとがあったそうだ。もう一人はいまだに行方不明だという。

イラフちゃんのおじさんも誘拐され殺された。あのイラフのお父さんの弟さんだ。

イラク国内の混乱がこんな身近なひとたちの身にもおこっている。

 

でも。アヤちゃんは、義足で元気にお友達と学校に通っているんだ。

アヤちゃんは、将来、お医者さんになりたいそうだ。

戦乱の中でもこどもが未来を夢みている。

とってもうれしくなって、私はもってきた聴診器を1本、小さな将来のイラクのドクトーラにプレゼントした。

アヤちゃんは自分の心臓の鼓動を聞いた。

「うん、聞こえる。」

ここにも、暗闇の中の無邪気な光があった。

日本のこどもたちからと、スマイルの荻原先生と奥様が作ってくれたメッセージ・カードを渡した。そこには、「平和、愛・・・」と書かれていた。

翌日はオーストラリアへ発つノーランの家に招かれた。

親戚も集まって、私たちにごちそうをしてくれた。

幸せなお別れパーティーだ。

小さな男の子が遊びにきていた。5歳のノーランの彼氏かな。

手をつないで楽しそう。

ノーランの未来、ずっとお幸せに!

脳梗塞で倒れたおじいちゃんが、一生懸命杖をついて、
わたしたちに会いにきた。

涙を流していた。おじいちゃん、本当によかったね。


手術で歩けるようになったハイダル君

亡くなったハニーンの家族も私たちにごちそうを招いてくれた。

とってもおいしいお魚料理。

「涙はなし」の楽しいファミリー・パーティー。

お母さんがわたしたちにハニーンの大切なおもちゃをくれた。一番大切だったお人形もくれた。あ、あのお人形だ。ハニーンがタンスからだしてきてくれた。

こんな大切なものをわたしたちにくれるなんて。

結局ハニーンを助けてあげられなかったわたしたちに、お父さんとお母さんは感謝の限りをつくしてくれた。そして何度も「マイ・ファミリー」と言った。

 

そのまま、またあの共同墓地にみんなで行った。ディアールのお墓にオリーブを植えるのだ。

鎌田先生と、佐藤真紀さんと、加藤たけくんと、とくこさん、くみさん、私、イラクからきていたイブラヒム先生、ハニーンのお母さん、妹のモナちゃん、ハニーンの隣のおばさんの10人で3台のタクシーに分乗した。

地平線まで見えそうなだだっぴろい共同墓地の上に広がる空はもっと広くて夕暮れがきれいだった。

整然と並ぶお墓の中からみんなで「ディアール」の名前を一つ一つ探す。

タクシーの運転手さんも、モナちゃんも、みんなで探した。

なんて優しい風景だろう。

一直線に歩いて探していたとくこさんとくみさんが「あったー!」と大きな声で叫んだ。

「ほんと?」みんなそっちへ走った。

「鎌田せんせー、ありましたよー。」

鎌田先生もピンクの夕暮れ空の中、こどものように走ってくる。

みんな息を切らして走って一つのお墓に集まった。

 「ディアールに呼ばれたの。すぐに見つけたんですよ。」ととくこさんとくみさんが言った。

 まきさんは一生懸命オリーブを植えた。ディアールを、そしてこの5年間に亡くなったイラクのこどもたちを追悼し、みんなでお祈り。

悲しいはずのお墓参りが、とっても優しい空気と時間に包まれた。ハニーンの言っていた居心地のいいところってどんなところだろう。

 いわさきちひろの絵の中のようだった。

 懐かしいような・・・。

鎌田先生が「あったかいねー。」と言った。

 

 ハニーンのお母さんからのたくさんのいただきものを胸に抱いて帰りの車の中でちょっと苦しくなった。

「イラクの人たちの感謝が凄くて・・・何にもしてあげていないのに・・・。」

 あの戦争がおこらなかったら、あの人たちは自分たちの国で幸せに暮らせていたのだ。

 私はあの戦争を止めなかった。なのに、なぜ、あの人たちはこんなに感謝してくれるのだろう。

「あなたたちはありがとう、って言う必要はないんです。わたしたちがごめんなさい、と言わなければいけないんです。」と誰に言っても「気にしないでください。ありがとう。」とみんな口をそろえて言う。

 鎌田先生が言った。

「イラクの人たちはあっかいんだよ。」

ATTAKAI, ATTAKAI 」イブラヒムがまた一つ日本語を覚えた。

 

 翌朝、まきさんとたけくんと鎌田先生はシリアからイラク国内のアル・ワリード難民キャンプへ向かった。

シリアにいるイラク人たちやパレスチナ人たちに状況はさらに厳しいらしい。

ピン、とした使命感が3人の男たちにはあった。

 「がんばってきてください。次は連れて行ってください。」

 「安全かどうか確かめてきます。」

  鎌田先生の次世代を守ろうとしている覚悟は、半端じゃない。

  あの絵本はメルヘンではない。

まきさんもたけくんも、本気だ。

 

私たちスマイルチームはアンマンに残り、
都市難民を診察することになった。


心不全発作のハイダルの妹・ノーラ3歳

歩けない3人姉妹のところにまず行くことになった。

アラビア語が堪能なようこさんと、jim-netの事務所で医薬品や検査キット、救命用具などを準備した。

3姉妹は、3人とも30代前半。20歳前後くらいから、次々に歩けなくなり、車いすの生活となったという。お母さんと4人でイラクから逃れてアンマンに住んでいる。

お兄さんは戦争で行方不明、お父さんはずっと昔に蒸発したという。

おおよその症状をようこさんから聞く。

筋委縮性側索硬化症か、それとも・・・?

タクシーのアブも一緒にきてくれて、彼の説明では、そのようなものも含む神経疾患のようだ。

数年前のメディカル・レポートの診断の項には「脊髄小脳失調」と書いてあるが、ずっと治らず、症状は進行していたらしい。

でも、1か月半くらい前に、神経専門の親切な先生に診てもらい、診断もつけてもらい、その病気に効くといわれている薬を開始したら。症状がどんどんよくなっていくという。

さらにその先生は薬代も検査代ももってくれて、リハビリ器具まで買ってくれたそうだ。

もうすぐその先生の再診があるのをこの家族は楽しみにしている。

よかった。私の出る番じゃなかった。

それより、この姉妹は不自由な手で、手作りの靴下やアクセサリー、キャンドルなどをがんばってつくって売り、生活をたてているという。

とっても素敵な品々だ。今度のチャリティ・イベントで出そう。

たくさん買わせてくれた。

とっても明るい家族で、こっちまで笑顔になる。

「どこかの国に受け入れてもらうための難民申請ってやっているの?」

「全くしていません。ここでは、いろんな人たちが助けてくれて、私たちは幸せです。ここで4人でずっと暮らしていきます。」

こんな家族もいるんだな。

ようこさんのアファク・プロジェクトで手作り作品をつくっている家族って、なぜかみんな幸せそう、あるいは幸せな方向にいくような気がする。

スマイル横浜院の受付の前にも作品がおいてあるので、ぜひ、買ってあげてほしい。

売上は全額、アファクを通じてイラク人家族に送られる。

 

次は、アムジャットさんと一緒に、ハイダルの家へ行った。

赤ちゃんのときに爆弾でやけどを負った子。手術をしてもらえ、相変わらず元気にお兄ちゃんと走りまわる。

「形成手術をアメリカで受けたいが、パスポートの不都合で受け入れてもらえないんだ。」とワイルドなお父さんが言った。

でも、元サッカー選手の中田英寿さんが訪問してくれたのを覚えていて、「今度、ハイダルと一緒に写っている日本のマガジンをもってきて。」とうれしそうだった。

 ハイダルは元気だったが、全身にウイルス性疣贅(水いぼの親戚)
のような発疹があった。こんなオレンジ色の水疱は見たことがない。
着替えもないようでかなり不潔だった。

お母さんが昼間路上でたばこ売りをしていて、
ケアしてもらえていないようだ。

でもとにかく元気だ。

穴倉のような家のもっと穴倉のような奥の部屋に
お父さんが案内してくれた。


おじいちゃんとおばあちゃんがいた。

おばあちゃんは私たちを見ると涙ぐんだ。

明日、おばあちゃん一人だけ、バグダッドに帰らないといけないそうだ。

どんな事情かわからないが、とっても寂しそうだ。


ノーラ。ほっておくと死んでしまう

いろんな身体の訴えをされ、すべて診察したが、なんらかの治療は必要ではあるものの、バグダッドへ行くことをストップするほどの緊急性のある所見は、誠に残念ながら見当たらなかった。

私は「ごめんなさい。」と言うしかなかった。

筑紫哲也さんが、自らの戦争体験から「戦争とは、家族が離れ離れになることである。」

と語ったことがある。

 

 「ハイダルの妹の様子がおかしい。ちょっと診てもらえますか?」

ようこさんが気づいてくれた。

 9歳のおねえちゃんに抱かれた3歳のノーラという女の子だ。

とっても小さい体だ。不機嫌でぐったりしている。そして呼吸が不規則で速い。胸とお腹を交互に陥没させて呼吸している。

聴診すると肺の音に喘鳴は聞かれないが心臓の音が、タタッカータとまるで馬の走るような音、ギャロップ音が聞こえる。奔馬調律という。心不全発作だ。

いつから?「生まれたときから。」

お父さんはあまり見ていないようだ。お母さんが帰ってきて、「すぐにねてしまう。ぐったりしていて、呼吸が苦しそう。食事もとらない。」

いつから?「2日前から」

あれ?キャルの診断書があるじゃない。この子は生まれつきの「拡張型心筋症」で、循環器医のキャルのところに去年の9月、アムジャットさんが連れていってくれた。そのとき、強心剤と利尿剤などをもらって、半年ずっと医師のチェックなしで、薬だけ飲み続けていた。

なぜ、病院に健診にいかないの?「お金がないから。タクシー代もない。」

慢性心不全はあったようだが、今増悪している。

キャルに電話した。

「ハーイ、ユカリ、ウエル・カム・ツー・ヨルダン!」キャルの明るい声。

キャルは診察中だけど、私の話を聞いて。とにかく治療して。

「わかった。明日の朝午前11時に。会えるの楽しみだよ。」

明日は私たちは帰国。午後1時にはアンマンを出ないといけない。でも、私たちも何とか一緒に行こう。

ノーラは、その夜はなんとかもちこたえた。わたしたちは翌朝、ホテルをチェックアウトし、スーツケースをタクシーに積んだ状態で病院へ行った。いつもヨルダンではこんなかんじで、ぎりぎりまでなんかやってる。

お父さんに連れられたノーラにキャルが心エコーをした。

ノーラの心臓は、広がりきっていて、しっかりポンプのように収縮してくれていない。とっても弱弱しい動きだった。僧帽弁からの逆流もあった。心臓から十分に血液が送り出されていないのだ。ふだんからそうなのだが、風邪ひいたり無理したりすると、もっと悪くなる。

こんなときは、集中治療室に入院して、心臓の収縮を増す薬や、心臓が十分送り出せない血液がうっ血してしまい肺に水がたまってしまう、その分をそとに出してあげる薬などをしっかり効かせるために、静脈から入れてあげたり、酸素を吸わせてあげなければいけない。でも、そうすれば、数日で、最悪の状態は切り抜けられる。進行してくると、この治療にも反応しなくなる。ほっておくと死んでしまう。

根本的な治療は心臓移植しかないのだが、この状況ではこうやって、この寿命を縮めるような発作をとりのぞいてあげる。そうすると、呼吸も楽になってくる。

だから早く苦しそうなノーラを楽にしてあげたかった。

 

キャルはエコーをしながら、「ユカリ、イラクのこんな子を見ると僕、悲しいよ。気持ちわかるだろう。」

すぐ入院のてはずを整えてくれた。

ヨルダンにキャルのような友達ができてよかった。

キャルはまた「I FEEL SAD .悲しいよ。」と涙ぐんでいた。

 

入院病棟の待合室で循環器病棟の部長先生を待った。

ねじりこんだのだ。多少待っても当然だ。でも、病院のひとたちは親切だ。

待っている間もノーラはお父さんにうつむいてもたれ、苦しそうだ。

自分で起坐呼吸をしているのだ。

かわいそうになって、ノーラを抱っこしてあげた。肩で息をしている。

かわしそうだ。3歳にしてはノーラは小さいので、
私の2歳になったばかりの娘と抱いたかんじが一緒だ。

なんとか、元気になってほしい。

先生がフレンドリーに降りてきた。さあ病棟へ上がろう。

突然、お父さんが入院を拒否した。

え?

なんかあわてている。

この病院はいやだという。理由がまとを得ない。

なにか事情があるようだ。


アファクの家族のサーファちゃん。
ようこさんと誕生会

カリタスの病院か、ICRC(赤新月社)の病院にしてほしい、という。逃れてきたイラク人を支援する病院だ。

まず、カリタスのディレクターのス八ッドさんに電話した。

「わかったわ。すぐ診断書もってきて。」

わたしたちは、もう空港へ向かわないといけない時間だったが、帰国延期になってもよい、と思った。キャルの病院の玄関で私は、急いで診断書とキャルが説明してくれた治療方針を書き、このお父さんとノーラを逃がすまい、と「私も一緒に行きます。」

ようこさんが、「大丈夫、わたしが、絶対に連れていくから。」

力強いようこさんに委ねて、帰国の帰路についた。

 

 途中、ようこさんから電話、お父さんがカリタスでも入院拒否。家に帰ったと。

でも、「カリタスのソーシャル・ワーカーと私とスハッドさんで、戦闘体制で、説得にいきます!ほっておいたら死んじゃうんですよね!」

 

 このあと、ようこさんはとっても苦労してくれた。

 こんどは、カリタスのイタリア病院の循環器のドクターが私の診断書を見て、

「この治療はここではできない。ヨルダンでは、ドクター・ハリッド(キャル)のいるハーリディー病院くらいしかできない。ドクター・ハリッドは中東一の心臓病専門医だ。」

 それでもお父さんは拒否。

最終的には、ICRCの病院に入院してノーラは元気になったそうだ。

 

でも、小さなこどもの命が後回しにされるほどの事情っていったい何なのだろう。

イラクの混乱の中の人たちの事情は私たちの想像をこえているに違いない。

 

あのワイルドなお父さんは誰かわからない。どんな事情があるのかもわからない。でも、私が一番接触したかった人かもしれない。そして、どうしても伝えたいことがあった人かもしれない。

「どうか、こどもの命を大切にしてください。」って。

 

そして、それはもう十分すぎるほどわかっていて、悲しいのは想像する以上に悲しくて、それでも何か計り知れない事情があって、私には想像もつかないような何かを一生懸命やっているとしたら・・・そんなイラク人に伝られることは一つだけ。

 

I  RESPECT  YOU.

・第1回報告 加藤ユカリ
・第2回報告 大向徳子
・第3回報告       
・第4回報告 中村久美
・第5回報告       
・第6回報告 大向徳子

・イラク難民キャンプ医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ
第7回報告  
・第8回報告 
第9回報告 加藤ユカリ 
第10回報告 加藤ユカリ
第2回オーストラリアミッション 大向徳子
第11回報告 加藤ユカリ