Australia Mission U 大向徳子 |
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左ノーラン、右サーファ | ノーランちゃん家族と スマイルチーム |
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ピンクの顔のノーラン | 右から渡邉看護師、 ノーラン、榧野ヒカリ、 サーファ |
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心臓手術直後のノーランとセラピー犬 |
2009.2.26−3.2 オーストラリア 私たちがヨルダンで支援してきた、心臓病の女の子ヌーランが第3国のオーストラリアへ行き、10か月が過ぎた。 去年9月に私たちが訪門後、2008年10月にオーストラリアでヌーランは心臓の手術を受けることができた。小さな体で手術は大丈夫だったかな..まだまだ英語のトレーニング中のお母さんとお父様は不安ではなかったかな...と日本から心配がつのるばかりだった。 今回の目的はUNHCR訪問とヌーラン支援の為のお見舞い。 今回は看護師の渡辺美智子さんとかやのヒカリさんと私でオーストラリアへ行くことになった。 まず、現地へ着いて、一日前に到着していたヒカリさんと合流しその足でUNHCRシドニー事務所へ向かった。 オーストラリアの難民受け入れについて、何故日本とこんなに違うのだろうかとの疑問をずっと持っていた。 UNHCRでdevelopment manager のMaureen Collins さんにお話しを伺った。 まず、オーストラリアは土地が広く、もともと多民族国家なのでその点では日本よりも受け入れやすいシチュエーションだ。言葉の問題もあり居住区をある程度わけているらしい。さらに今の首相になりずいぶん難民受け入れはよくなり、国民の意識も高まっているそうだ。 最も興味深かったことは、現在のオーストラリアの企業家のビッグ3と言われる人の一人がかつて難民だったそうだ。 難民の方を受け入れて、言葉(英語)トレーニングや職業訓練また子どもたちの教育など最初にある程度国が支援しても、すぐにいち市民となっているのがよく理解できた。“難民”ではなくここでは普通の“住人”なのだ。 難民を「受け入れる」という考えから、将来難民の方と「国を一緒に支える」という考えになれば、もっと発展的になれるのではなかろか。 その日の残りは、ヌーランが住むLiverpoolという、シドニーから電車で一時間ほどのところまで移動した。UNHCRのMaureenさんが言っていたように、居住区を分けているのかLiverpoolへ行く電車はほとんどの乗客が中華系かアラブ系の人たちだった。 その日はそのままホテルへ向かった。郊外で観光地でも商業地でもないLiverpoolはホテルも少なく、私たちが泊まるのはトラックの運転者さんがたむろしているようなモーテルだ。ここは私は前回(昨年の9月)も泊まったが、以外に快適だった。 Liverpoolに着いて、ヌーランのお母さんへ電話をした。日本からのメールのやり取りの時も驚いていたが、オーストラリアへ来て1年もたたないとは思えないほどの英会話だった。取り急ぎ、明日訪問する約束をした。 翌日、いざ3人でヌーランちゃん宅へ出発。。モーテルから歩いて15分ほどのところにある。 ヌーランのアパートの前まで来て、私は階数を忘れてしまった。ヌーランのお母さんへ電話をしたらすぐにお父さんがベランダから手を振ってくれた。そうだった、3階だった。オートロックの玄関が開いていたのでそのまま3人で3階まで。。。ヌーランと妹のサーファが出迎えてくれた。 「あれっ、ヌーランの唇とほっぺがピンク色だっ!」「ブルーだった顔がピンクになってるの!」初めてヌーランに会うヒカリさんと美智子さんに思わず説明してしまった。 今回は、お父さんもお母さんもヌーランも「アッサラーム・アライクム(アラビア語の挨拶)」ではなく、「ハロー、ハウアーユー?」だったのにも、また私は驚いた。 一通りあいさつが終わると、「お陰様で、ヌーランの体の酸素濃度がずっと74%だったのが10月の手術後81%まで上がり、顔がブルーフェイスでは無くなり、ピンクフェイスになりました。ずっと見捨てず支えて下さった、ユカリ先生はじめ皆さんのお陰です。ありがとうございます。」っと、お母さん。 今は、自宅での酸素吸入は殆どしなくて良くなったものの、内服薬と自宅でのステロイドと気管支拡張剤の吸入は続けなければならないとのこと。手術など大きな費用はオーストラリア政府が負担してくれるものの、お薬代や通院費用(タクシーしか交通手段がない)、また歯科などのエキストラな病院受診は、自分でやりくりされているようだ。 以前まで少しの歩行でも呼吸が苦しくなって座りこんでいたヌーランが、走れるまでなっていた。しかし、今まであまり歩いていなかった為、2つ下の妹サーファより細い脚だ。実際、学校で転び顎と口を怪我をしたそうで歯科受診や怪我の軟膏代などの病院受診で、国から生活費が支給されるも厳しいとのこと。 次のお母さんたちの不安は、「2〜3ヶ月後に病院で再び検査を受け、その時に再手術が必要かどうか決まる。でも手術は恐らく無く、またそうであってほしい。ドクターが言うには5年後、10年後ヌーランの体が大きくなるにつれて今回のシャントの大きさが合わなくなってくるのでその時に再手術が必要であろう。」とのこと。 5年後、10年後。。。今まで助からない、来年死ぬかもしれないと言われて続けていたヌーランの5年後、10年後!!何となくお母さんたちの不安な訴えにもヨルダンにいたころの言い表せないような暗くさみしい感じは無く、とてもパワーのあるキラキラしたものに見えたのは気のせいだろうか。 お父さんは現在、語学学校と職業訓練中でもう暫くは働けないらしい。すべてのカリキュラムが終わったら、ビルの配管工(?)として働きたいと言われていた。 お母さんも語学学校に行かれているそうだ。でも、かなり医学用語なども使いこなしかなりペラペラになっておられた。聞くところによると、「ヌーランの手術もあり、先生に直接通訳無しで説明を聞きたかったし、ヌーランの体の訴えなども自分で言ってあげたかったので勉強しました。」とのことだった。確かにそうかもしれない、自分の国で母国語での入院や手術だけでも不安になるのに、言葉の違う異国での手術となると計り知れない不安があったに違いない。 一つだけ残念な(?)出来事があった。一緒にヨルダンから来ていた脳梗塞後の麻痺が残っていたノーランのお祖父様がオーストラリアの生活に全く馴染めず、イラクへ戻ったとのこと。でも、お父さん曰く「心配しないでください。今イラクの街は危険だけれどお爺さんの“心”は幸せになっています。」と。 半年分の、積もる話が一段落するとお母さんが夕食を準備してくれた。ヨルダンでもそだったが、とてもお料理上手で今回初めての美智子さんヒカリさんも感激していた。私の感想は、今回もとてもご馳走でおいしかったお料理...言葉に続きこちらもアラブ料理は少なくなり、パイやシュニッツェルなどで欧米化されていた。 話も尽きなかったが、夜遅くなってきたのでホテルへ帰ることに。。。翌日の夜私たちは日本へ戻る予定だったので、再び午後に会う約束をした。 最終日の午後ヌーランを迎えに行き、近くのショッピングセンターで一緒にお食事をすることにした。お父さんはこの日は英会話学校で勉強の為来れなかった。ショッピングセンターは家から歩いて10分ほどのところだが、ヌーランはずっと歩いて行くことができた。手術前は呼吸が苦しくなるため殆どベビーカーにのっての移動だったが今は「私は赤ちゃんじゃないからベビーカーには乗らないの。私はもう赤ちゃんじゃないのっ!!」とすたすたと私たちをショッピングセンターへ案内してくれた。お母さんの話では、今年の夏は1月頃まで非常に熱く毎日冷房のきいたこのショッピングセンター内で過ごしていたとのこと。確かに今年のオーストラリアは40度まで気温が上がったり、山火事が起きたり異常気象だったらしい。 この日のヌーランも、看護師の美智子さんをつかまえて学校の先生になったり、インタビューアーになったりと大はしゃぎだった。美智子さんに「ミチコッ!ユーアーソ〜〜ビュ〜〜ティフル アンド ソ〜〜カインド….。バァァァット!○×▽□△〜〜(ノーラン語でよく分からないが突然叫びだす)」。いつもヌーランが学校の先生からこうやって(褒めて落とされるやりかた)怒られているのかな、何度も何度も繰り返し、美智子さんが「ノーランティーチャー...本当にごめんなさい。もう二度としません。」というと勝ち誇った顔になりニンマリ。こんな大はしゃぎをしても手術前のように唇が真っ黒になったり目が充血したり呼吸が苦しくなったりすることは全く無かった。 最後にお母さんが「ずっと忘れないで見捨てないでヌーランを支えることを継続して下さり、感謝しております。今度はこちらで、イラクにいる子どもたちの為に何かしたいと思っています。ユカリ先生にくれぐれもお伝えください」。お父さんも電話で同じことを言われていた。 ヌーラン一家は、ヨルダンで同じく子供のガンの治療をし難民として第3国のアメリカへ行ったゼキ家族とも連絡を取っている。ゼキ家族はもともとご自身のお子様も癌でヨルダンのキングフセイン癌センターで治療中だった。そのお父さんのゼキは癌センターで子供たちに英語を教えたりボランティアをしていた人だ。 近い将来世界中で、私たちが関わったイラク人の人たちで子どもたちの支援と平和の輪が広がっ行くことが楽しみだ。 私たちは今回でヨルダンイラク国境の難民キャンプやヨルダンの都市難民の支援、またノーランのオーストラリアでの支援をあわせると14回になった。 その中でヨルダンイラクの国境近くのルウェイシッドキャンプは全家族が第3国へ決まり現在キャンプの跡形もなくなっている。またイラクヨルダン国境緩衝地帯ノーマンズランドではユカリ先生が何度もレポートを書きヨルダンで手術した水頭症の男の子クマール君家族が第3国へ行き、今や月に一回国境なき医師団オランダやUNHCRが診察に行ってくれるようになった。今まで続けてきたユカリ先生やスマイルチームの森田先生またJIM-NETの方々の小さな「アピール」が大きな力になった。ノーマンズランドはその名の通り、“人がいない所である”と以前は誰からも存在をも否定されていたキャンプだった。私たちが行き始めた2005年より少しずつイラクヨルダンも良くなってきている気がする。。。 ヌーランが大きくなる5年後10年後、ヌーランが生まれたイラクが平和になっていますように。
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