第11回ヨルダンーイラク国境難民キャンプ医療支援レポート 「男らしさ、父親らしさ・・・国を追われても。」 医師 加藤ユカリ |
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国境警備隊が銃をかまえているはずだ。 数百メートル向こうの難民キャンプの柵から、青年は一人でこちらへ向かって砂漠の中を一生懸命走ってくる。 「森田先生、あれです!」 わたしは車の中から手をふってしまった。 |
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だから、わたしたちはもう、もっと大きく手を振った。 友達だから。撃たれないで。アピールするように手を振った。 「ア、リ、ガ、ト、ウ。」 「国連はやる気がないわけじゃない。予算がないんだ。」 原文次郎さんのリサーチは正しかった。 |
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難民キャンプのこどもたちとユカリ医師 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レターに「日本のような平和な国では癌をうたがわれたら検査する。この子たちも同じようにされる権利がある。」というような内容を書いた。 戦争をしていようと、国がどんな状況であろうと、こどもの健康や命は優先される。 小児科医だから伝えられることでもある。 そして、ヨルダンのキング・フセイン・癌センターで手術をしてもらい、腫瘍を完全に切除してもらった。組織診断の結果、良性腫瘍であったと。 国連の人たちの、「本当によかった。」と喜び合うメールが届いた。 アリアンは眼の手術後も病室でお勉強をしていたという。キャンプから持ってきたボロボロのノートにアルファベットの文字の左右もさかさまだったけど。 こどもたちには、未来がある。 |
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・キャンプの人たちと徳子薬剤師 | 森田先生。イラク国境で難民の青年と | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そう。小さな幼児があんな過酷な環境で糖尿病をもっているということは、非常に命が危険だということだ。こわい急性の合併症とつねに隣り合わせなのだ。 わたしと夫はこの子を養子にもらって家族ともども日本に連れてこられないか、と考えた。夫は優しく「またこどもが増えるね。いいよ。」と言ってくれた。 |
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イラク人の赤ちゃんとユカリ医師 | 徳子薬剤師とイマーちゃん | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかし、日本の法律では、たとえ養子でも強制帰国させられ、この子は危険な自国に帰されてしまうだろう。ということだった。 国をおわれている人たちにはパスポートもないのだ。 オーストラリアだって、スウェーデンだって、ブラジルだって・・・もっと受け入れているのに。 とにかく、この子が急性の合併症(糖尿病性ケトアシドーシス、低血糖での意識障害など)をおこしたときは必ず救急搬送していただけるように、再度国連へレターを送った。 日本の法律が遅れてでも人々の後を本当についてきてくれるなら、まず、先を歩くわたしたち人々自身が難民の人たちに心を開くことが大切かな。 わたしたちは、みんなで幸せになるために、法律だって書きかえることができる。 研修医のとき、アメリカの成功した整形外科のドクターの講演で聞いた。 本当に必要なことがあれば、Money will follow you. そして The Law will follow you. のはず。 3人目の21歳の女性については国連もずっと無反応だ。いつも患者さんみんなのクルド語アラビア語を通訳してくれる彼女のお兄さん、心配しているだろうな。 でも、国連さえも入っていない、世界から見捨てられていたこの難民キャンプだったけど、こうやってわたしたちが何度もここへ入り、診察しレポートでプッシュしているうちに、国連が定期的に医師を送ってくれるようになった、と聞いた。 「国境なき医師団」に予算さえつけば、ということだった。 2008年11月、11回目の活動だ。 今回は、いつもの5人(JIM−NETの佐藤真紀さんと加藤丈典くんと、スマイルの加藤ユカリ医師、大向徳子薬剤師、中村久美看護師)と、いままで2回参加してくださった浦安院院長の森田昌雄先生も一緒だ。 こんなベテランの先生が一緒でなんて心強いんだろう。
森田先生の娘さんは医学生。 つい最近まで、アンマンの「アラブのこどもと仲良くする会」のようこさんのところにお世話になりながら、しばらく、イラクの病気のこどもたちやその家族と一緒にクラフト(日本でその手作り作品を売り、その売り上げ金で治療のためのアンマン滞在費のあててもらう。スマイルの待合室でも販売している。ぜひ!)をつくりながら交流した。 娘さんは現地ではネッティと呼ばれ、イラクのこどもたちやお母さんたちに絶大な人気だったようだ! とくに、眼球を摘出して目の見えないアリ君にバイオリンを弾いて聞かせてあげて、親子ともに大喜びだったそうだ。 また、母国イラクをおわれて、白血病などの病に冒されたこどもに隣国ヨルダンで治療を受けさせ、明日の生活もしれないお母さんたちにとっては、心強いお友達になっていた。 また、どの家庭を訪問しても、森田先生を見て「ナッティのパパ!」と言ってこどもたちが喜んでいた。 インフルエンザのワクチンを打つためにアンマン市内のいくつかの家庭を訪問しながら、そんな話を目を細めて聞く森田先生は、一人の「お父さん」だった。 こどもががんばっていた話を聞く、って親にとっては、とってもうれしい。 日本で、できるかぎりインフルエンザのワクチンを受けて予防するように呼びかけ、予約枠を大幅に増やし、できるかぎり多くのこどもたちに打つように、同じように難民キャンプの彼らに打つのだ。 冬は刺すほどに寒い砂漠の中で、もしインフルエンザが流行って肺炎なんかおこしても、国境をこえての入院搬送は手続きに何日もかかる。拒否されることもある。予防がたいせつだ。 そして、もちろん、今までと同様、病気やけがのひとたちに治療をしたり、ヨルダン国内に搬送が必要な人について、国連UNHCRへ直接行ってお願いすることだ。 1日早くアンマンに到着してくれていたとくこさんがハイサムの薬局でインフルエンザワクチンを購入してくれていた。 今回、同行するのを躊躇していたハイサムのことも説得してくれていた。ハイサムもはりきってスマイルと一緒に助けに行ってくれることになった。 ハイサムの息子さんはカラテを習っている。薬局の店先で黄色い帯の道着を着て形を披露してくれる息子のことを微笑んで見ている。 いつもどおり、早朝にアンマンを出発。砂漠の1本道を数時間かけて東へ向かい、ヨルダンの国外へ出て、イラクとの国境の砂漠を突き抜け、イラク領土に接するトリビル難民キャンプ、ノーマンズランドへ到着だ。 途中のいつものマーケットで、100人分のこどもたちのノートと鉛筆、消しゴムを 購入した。松本院に匿名で寄付をしてくれた女性がいた。すべて、使わせていただいた。ありがとうございます。あのキャンプは国連が入っていないので、こどもたちへの教育プログラムがない。自分たちで勉強を教えている。文房具はこどもたちの未来にとって貴重なパスポートだ。 砂漠の中に柵で囲まれた難民キャンプのひとたちは歓迎し、待っていてくれた。 早速、かたっぱしからワクチンを打った。 問診表なんて書いてもらう時間はない。同意書のサインなんていらない。不活化ワクチンで副作用なんてほとんど問題にならない。卵アレルギーなんてない。日本のワクチン行政はリーダーシップの欠如から先進国から遅れているのか。その子が本当にその病気で重症になるのと、熱なんかが出てクレームつけられるのがいやなのと比べて、どっちを選んでいるのか。 副反応にPTAがうるさいのか、メディアが騒ぎするからか・・・。 そうじゃない。医師と患者さんとの信頼関係だ。ここにくるとそれがよくわかる。
真紀さんとたけくんがこどもを押さえて、わたしたちが打つ。 あ、日本にいるときと同じ現象が・・・。 こどもたちは歯をくいしばって注射をがんばっているのに、 テントから出てこない人も。久美さんがテントまで行って打つ。 みんなで集まってワイワイ楽しい時間だった。ワクチンの意義はたしかにあるが、それ以上の、わたしたちのチームとここの難民のひとたちの大切なつながりがある。 ここの人たちにインフルエンザなんてきっと流行らないように思える。 インフルエンザの大流行は、こどもたちに未来をつくっていこうとする世界には恐ろしい結果はもたらされないはずだ。もし流行したとしても、世界が一致団結し、いたわりあい、新しい人類の知恵を得るための神様からの試練だ。 愛に満ちた家族が、一緒に問題をのりこえて、さらに愛を深めるように。 さあ、診察だ。 すでに森田先生はたくさんの患者さんを診ている。
2歳の1型糖尿病の女の子、サリタのお父さんが、他の人たちと孤立している、と聞いていた。搬送のときも一緒に病院へ行こうとしない。しかも、お父さん自身が「みんなから仲間はずれにされている。」といつも言っている。みんなは全くそんなことはなく、むしろ、サリタの搬送を拒否したりするので困っている。また、この仲間割れが原因で個人的にこのキャンプを支援していたクルド系アメリカ人が支援を中止したという。難民キャンプの中での仲間割れは切実な問題だ。搬送拒否はサリタの命にかかわる。 わたしはお父さんとふたりで腰かけて話をしてみた。 「サリタはどう?」 その様子を他のひとたちが見守っていた。 お父さんは自らみんなを拒絶して孤立していっているようだった。 お父さんは「僕のテントで話そう。」と、テントまで連れていってくれた。 サリタと小さな妹がテントの中で笑いながら追いかけっこをしていた。 美しいお母さんも一緒。 テントの外の青空の下のロープにボロボロだけどこぎれいに洗濯物が干されていた。その様子をみて、少しホッとした。 一緒にきていたたけくんに、お父さんは、どんなに自分がこのキャンプでつらい目にあっているかをずっと話している。被害妄想的になっていた。 この環境でわが子が恐ろしい合併症と隣り合わせの病気をもち、毎日採血と注射をして先の見えないつらい思いをしている。 アラビア語はわからないけど、つらい思いが伝わってくる。 国を追われても、ぎりぎりのところに立って、お父さんはがんばってるんだなあ。 「この家族にとって素敵なお父さん、サリタのためにも、みんなと仲良くして。」と何度言っても 「できないよ。できないよ。できないよ。」 Please be friends with them.・・・・・ I can`t. I can`t. I can`t.・・・・・ ずっと押し問答になっていた。 将来女医さんになりたいイマーは何度も「I love you.」 を繰り返してくれる。 「もちろんよ。」と言って小さなドクトーラは、もっと小さなサリタと手をつないでくれた。 サリタのお父さんは「イマーは、サリタのめんどう、よく見てくれるんだよ。」と笑って言った。そして、たけくんと肩を組んで穏やかに何か話していた。 イマーは天使だ。 特設診療テントに戻ると森田先生はてんてこまいで患者さんを診ていた。 徳子薬剤師も、久美看護師も、いつものように、すごいテンションでがんばっている。さあ、わたしも診察しよう。 いろいろな訴えにいろいろな対処をする。 薬を渡したり、注射をしたり、処置をしたり、「ヨルダン国内の病院へ検査や手術、入院が必要、と国連にレポートを書くから。」など・・・。 あれ、小さな声で目立たないように通訳してくれている男性がいる。 サリタのお父さんだ。 実際は、きっと助け合っているのだろう。
みんなが、「説得してくれ。」と言ってきた。 今度は、水頭症のコマールのお父さん。 アンマンで手術をしてもらったものの、定期健診を拒否するという。 合併症がおこったら大変だ。 みると、脳内に入れられたチューブのところが腫れている。 「感染の可能性があります。必ず病院に行って。」 お父さんはあっさり 「わかったよ。」 お父さんは第3国移住を希望している。定期健診に行けば、「安定した状態」ととらえられ、第3国に受け入れられる可能性が減るからだ。 悲しい、、極限状態のかけひきだ。 でも、今はとにかく病院へ行ってほしい。3歳になったコマールのためにも。 イマーちゃん、ちょこちょこ、お手伝いしてくれる。 こどもたちは数カ月ごとに少しずつ大きくなっている。 そして、ほんの少しずつ、明るさが消えている。 大人の精神状態がこどもたちにも伝わっている。 この天使の無邪気な笑顔がかわっていくのをくい止めたい。 テントの外へ出て、柵の前で迎えの車を待った。 もうすぐ12月になる。砂漠の夕方は厳しい寒さだ。 わたしたちには耐えられないくらいだが、ここのこどもたちは、ほんとうにすごい。 たいして厚着もしていないのに、平気の笑顔で走り回る。 風邪、ひかないでね。 先日、東京でのイベントでユニクロがつくってくれた青いパーカーをみんな着ていた。 バックに大きく「難民ってカッコいい」とプリントしてあって、日本では、賛否両論、その言葉に波紋を呼んだ、と聞いた。 日本では批判されるかもしれないが、まさにこの現地ではThat`s right ! その通りだ。彼らが日本語が読めないのが残念だ。 今日はアメリカ兵を見ない。 撤退しているのだろうか。
アンマンに帰って、深夜まで国連へのレポートを書いた。 森田先生と4人のハイプライオリティケース(27歳の眼球手術が必要な人。 21歳の全身状態の衰弱している人。前回もお願いしていたが放置されていた。 9歳の心疾患あるいは甲状腺疾患を疑われる女の子、水頭症のコマール。) 6人のプライオリティケース(25歳の大きく多数の肝のう胞のある人・・・後日手術をしてもらえたそうだ。9歳の肝炎と肝脾腫のある子、33歳の左目の手術が必要な人。40歳の前腕の麻痺のある手術が必要な人。43歳の肝臓に腫瘍のある人。 10歳の腎盂腎炎で入院した子のフォローアップ。 翌日、そのレポートをもって、アンマン市内の国連UNHCRを訪ねた。 国連のミルベットさんという女性。この人が、前回わたしたちがレポートした、眼球に腫瘍にあったアリアン君や糖尿病のサリタちゃんなどのヨルダン国内の病院への搬送に尽力してくれた。その後も搬送をしてくれていて、この女性がヨルダンの国連に赴任してから、以前、岩のように硬かった国境だったが、精力的に搬送してくれるようになった。 まず、そのことに深く感謝を告げた。そして、スマイルチーム、JIM−NETへの感謝の気持ちもいただいた。 計10人の患者さんについても、すべてではないが、そのうちの何人かについては、入院搬送をしてくださると約束してくれた。 こういう人が国連にいてくてくれると、本当に助かる。 しかし、後日、ミルベットさんは国連の任期が終わり、「スマイルと一緒に仕事がしたい。」と真剣に言っていた。とたけくんから聞いた。とってもうれしい。でも「国連」にいてほしい。 しかし、一生懸命、誠実に結果を出す人って、本当に、一生懸命心を砕いて仕事をしているんだな。政府との調整、予算のこと、難民からのクレームなど、本当にいっぱいいっぱいでがんばっていた。 水頭症のコマールの話になった。各国に聞いてくれているが、なかなか第3国が受け入れない。お父さんはコマールの治療を拒否する。こう着していた。 ミルベットさんは、もうどうしようもない、という感じで「コマールのお父さんは、コマールが死んでもいい、って言っているんです!」 わたしは、以前コマールがひどい脱水になってテントの中で点滴などをしてあげたときのお父さんの泣いていた顔を思い出した。 「コマールのお父さんは泣いていました。」 森田先生は「こどもたちは、自分たちで選択することができないんです。」と言った。 戦火の国で、逃れてきた砂漠で、大人の状況が優先され、世界中で儚くされているこどもたちの命。後回しにされているこどもたちの未来。 小児科医だからこそ、その届かない、声にならない声を伝えなければならない。 その後、コマールの家族がニュージーランドに移住になったと聞いた。 ミルベットさん、ありがとう。 ミルベットさんが、「ノーマンズランドから、子宮がんの疑いでアンマンの赤新月社の病院に搬送されているが、手術代を出すところがなくて、そのままにされ困っています。手術代を出してくれませんか?」 すぐにみんなで赤新月の病院へ行った。病室には出血による貧血が続いていたのだろう、ぐったりしてベッドに横たわっている初老の女性と息子さんがいた。 とっても親切なドクトール(医師)がやってきた。 女性に「トリビルから来たのね。わたしたち、あなたたちが好きなのよ。」と伝えると ドクトールがクルド語に通訳してくれ、その女性がわたしの手にキスをしてくれた。 手術の必要性について医師から確認し、支援することにした。 この女性は、その後手術を受け、組織の診断では癌細胞はなかったが、出血も止まり、元気になったという。よかった。 ドクトールは日本が大好きだと言って、「お茶」の手振りをして見せてくれたり、わたしたちがキャンプから持ち帰った検体をすぐに検査室で検査してくれたりした。 短い時間だったけど素敵な出会いができた。 「アンマン市内にイラクから逃れてきて、助けを求めている家族がいる。」とたけくんが言った。真紀さんとみんなで訪問した。 フセイン君とアトヤフちゃんという兄妹。 二人は奇妙な骨の癌に冒され、何度か手術で足や手を切除された。6人兄弟のうち、2人が同じ癌で亡くなり、1人がイラク戦争で殺された。一番上のお姉ちゃんがたまたまイラクから数日の滞在で二人の小さなこどもを連れてやってきていた。 メディカルレポートを読んでも、典型的な骨肉腫のパターンと異なっており、遺伝子レベルの障害が考えられ、レポートを書いたドクターの「劣化ウラン弾が原因である。」という内容に、森田先生も私も否定しきれないものを感じた。 部屋の中にある男の子の写真。とってもかわいい!しかし、それは亡くなった二人であった。亡くなる前の写真。いたずらっ子の男の子の顔だち・・・しかしその手足の様は悲しかった。お父さんからその子たちのメディカルレポートを渡された。 体中に数えるのも悲しいほどの数の癌におかされ亡くなった。 フセイン君は、年ごろの青年だ。しかし、手足や容貌からだろう、人前にいるのが恥ずかしいようだ。 アトヤフちゃんは15歳。ニコニコして恥ずかしそうに「I love you.」と話す。 学校に行きたいけど、少ししか歩けないし、その手足の容貌でいじめられるから行けない。 たくさんのメディアの人たちが写真を撮ってちょっとポケットマネーを置いていってくれたけど、助けてくれる人はいなかったという。 なんとか助けたい。 日本にいる夫にその場で電話した。 夫は15歳の長女と受験する学校を一緒に見に来ているという。 彼の受験校の選択の基準はユニークだ。「近くに鉄塔がないこと。」 夫は「マイ電磁波測定器」をもっていって学校を判定する。 こどもたちの健康のためだ。 「あなた、アトヤフちゃんたちを助けてあげて。」 夫は具体的な状況はわからなかったようだが、でも、また、いつものこととわかっているようだった。受話器をアトヤフにわたした。 15歳のアトヤフは小さな声で微笑んで「ハロー」と言った。 夫はすぐに「何とかしよう。」と言ってくれた。 わたしの夫は言葉は少なくても、とっても男らしい。 ケチをつけるとしたら、電磁波測定器は、ちょっと・・・。 アトヤフちゃんたちの一番上のお姉ちゃんは、本当に明るい。 「イラクではこどもたちが次々に死んでいるの。水も飲めないし、病院も機能していないの。」そんなところに、彼女はこどもたちを連れて数日後にまた戻っていく。 それでも、とっても明るい。 自分のこどもの足を心配している。エックス脚のようだ。 「心配ない?」と聞いてくる。答える前に「大丈夫でしょ?」 自分の手にできたできものを「心配ない?」と聞いてくる。どちらも日本にいたら「心配ない。」と答えられるが、何しろ兄弟みんな癌だ。100パーセント大丈夫と言いきれない。でも「心配ないよね。心配ないよね。」と何度も聞いてくる。 森田先生も私も「心配ないよ!」と言い切った。 目に見えない、陽とか陰みたいなものがあって、エネルギーの方向性と言ってよいのか表現しがたいものが、わたしたち人間をいつも取り巻いている。 この家族に少しでも小さな光がさすことになるなら、それは、彼女の存在のおかげだ。彼女は、いつも明るいほうを見ようとしている。彼女に心配をさせてはいけない気がした。 こんな悲しい記憶をもった家族に徹底的に幸せになってもらいたいと思った。 帰りの車の中で思った。 「わたしたちはこどもたちが健康でいるだけで感謝しなければ。 あのお父さんは、世の中すべてを恨んでもいい経験をしているのに、なんで、あんなふうにしていられるのでしょう。」わたしだったら、強盗になっていたかもしれない。 森田先生が「まったく・・・そのとおり・・・です。」お父さんの言葉には重みがあった。 その後、たけくんとようこさんが、この二人の手術などについてコーディネートしてくれて、第1回目の手術がおわり、真紀さんが写真を送ってくれた。 「幸せになってほしいですね。」と添えて。 スマイルでの深夜の診療にはお父さまがこどもたちを連れてきてくださることが多い。 朝までの処置の間、待合室で座ったまま仮眠して、そのまま朝仕事に行かれたり、 泣き叫ぶこどもに絵本を読んできかせてあげたり、あわててパジャマのまま来られたり、わたしたちに気遣って差し入れをくださったり、徹夜で看病をしている妊娠中のお母さんを気遣ったり・・・。 愛すべきお父さまがた・・・イラクのこどもたちのお父さまがたと、まったく一緒。 ちなみに、わたしの真ん中の息子は早産未熟児で生まれた。 市内の産婦人科からすぐに、大学病院のNICUへ救急車で搬送された。 その後を夫は車で追いかけた。救急車の後ろについて信号無視もしたという。 車のフロントガラスから息子ののっている救急車の後ろだけを見て走った。 お父さんの愛はすごい。 ※その後、この難民キャンプに、国連が、「国境なき医師団」から1か月に2回、医師3人看護師2人の医療チームを派遣してくれるようになりました。搬送費、医療費はJIM−NETを通じてスマイルが支援。他の団体も支援するようになるそうです。国連も入っていなかったノーマンズランドでしたが、スマイル医師団、JIM-NETの地道な訪問診療が功を奏し、医療が届くところになりました。 ※ヨルダン政府が入国を拒否するため、搬送が滞るようになりました。 政治的な理由もあり、ヨルダン国内でこれ以上のアピールは他の支援活動にも支障がでる可能性もあるとのこと。解決策は?日本のひとたちにも、このノーマンズランド難民キャンプの存在を知ってもらうこと。あのこどもたちの未来を世界から葬り去られることがないよう、このレポートを読んだ人は、お友達にも教えてあげてください。 わたしたちと全く同じ家族、友達、輝く未来をもったこどもたちです。 |