第7回イラク国境の難民キャンプ医療支援レポートと、
   天使になったイラクのこどもたちとニューヨークへ!!
・第1回報告 加藤ユカリ
・第2回報告 大向徳子
・第3回報告       
・第4回報告 中村久美
・第5回報告       
・第6回報告 大向徳子

・医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ
第7回報告  
・第8回報告 
第9回報告 加藤ユカリ

第2回オーストラリアミッション 大向徳子
第10回報告 加藤ユカリ
第11回報告 加藤ユカリ
加藤ユカリ



 2007年9月のヨルダンはまだラマダン中。
日中ずっと絶食だから、街の中はみんないらいらしてクラクション、ブッブー!
でも、夕方からごちそうの準備でみんなそわそわ、デイナーはすごいごちそうを
家族で食べるのだ。
 ホテルのレストランや、イラク人家族のおうちなど、いろんなところで、ディナーはみんな楽しそうだ。こどもたちは踊り、女の子はぺちゃくちゃ笑いながら集まってくる。
 イスラムの人たちって、素朴で陽気な人が多いんだな。
 今回の難民キャンプは、元サッカー選手の中田英寿さんという方も一緒にきてくれた。私は、この人の名前も顔も知らなかった。
 難民キャンプの人たちの喜ぶ反応をみて、世界中に人気の素晴らしい方とはじめて納得した。
 でも、今回何より「サッカー」・・・スポーツというものの偉大さを知った。
  今回のヨルダン行きは、スマイルからは薬剤師の徳子さんと看護師の久美さんとの3人だ。
 現地で佐藤真紀さんとJIM-NETのインターンの加藤たけくんと合流した。
ずっとヨルダンでラマダンを過ごしていた真紀さんは、すでにやつれていた。
 NGOで働く人の保障や福利厚生って、どうなっているんだろう。
 「本物は安い。」という言葉を真紀さんを見てて思いだす。
 ニュートンはただで万有引力の法則を発見したが、莫大なお金で国立研究所をつくったら世紀の発見はなくなったと。
 今の真紀さんは自分のすべてを苦しむ人に捧げる「幸福の王子」だ。
 アンマンに到着してすぐに、1歳のコマール君に会いに 赤十字病院へ行った。
前回キャンプであった彼とは別人のように明るい笑顔で遊んでいる。
とうとうヨルダン国内で水頭症の手術をしてもらえたのだ。
 お母さんは、とっても喜んでいた。
 わたしたちの姿が見えなくなるまで、天を仰いで、神のご加護をと祈ってくれていた。
 ・・・神様、ありがとう。
 4歳のハイダル君の家へ行った。
前回、境野先生チームが訪問した。赤ちゃんのときにイラクで爆弾を浴びて足に大やけどを負い、皮膚が拘縮し、歩けなくなっていた。 
 訪問後、現地NGOのカリタス・ヨルダンにお願いに行ったところ、すぐに対応してくれて、手術をしてくれたのだ。手術代ももってくれた。
 お兄ちゃんと元気に走り回る彼の姿を境野先生に見せてあげたい。
 心臓病のノーランちゃんの家にも行った。
「以前は、『そのとき』(ノーランの寿命)のことだけを考えて生きていた。今は、発作もおこさなくなり、主治医からもとってもよい状態といわれています。家族みんなが幸せに過ごしています。」
 かわらない幸せな状況をみてほっとした。
 3日後のノーランの誕生日にきてほしいと言われた。
 生まれたときから「もうすぐ『そのとき』が来る」と医師から言われていたのだ。

ハニーンちゃんと大切なお人形
 その思いから解放された、今年の誕生日はきっと特別なのだ。
  ちょうどその日は私たちの難民キャンプへ行く日だった。
 家族みずいらずで、「本当の誕生日」を祝ってほしい。

いいことばかりだ・・・。神様ありがとう。
 今日の訪問までは・・・。 
 難民キャンプへ行くまでの数日は、またイラクからアンマンに逃れて生活している都市難民と呼ばれるひとたちを往診した。
 自身もイラク人男性の知り合いのネットワークで病気で困っているこどもたちとどんどん会わせてもらった。世界から見捨てられているこどもたち・・・。
 表にでては、イラクに帰され殺される・・・。ひっそり生きるしかないひとたち・・・。
 卵巣がんの11歳の女の子。名前はハニーン。
手術はしたけど、そのあとの化学療法が受けられず、腹水もぱんぱんになっていた。私たちがくると、お気に入りのお人形を出して見せてくれた。かわいい絵もかいてくれた。
 「テニスがしたいの?」
 「うん。」

 弟たちのめんどうをよくみる、かわいいおねえちゃんだ。
 「お金」の理由で、生き延びることをあきらめているなんて・・・。
 20日に1回、1回6万円の治療費とこの子の未来と、
 その重みは天秤でははかれない。
 
 
 さとうまきさんにキングフセインがんセンターでめんどうをみてもらえるように手配してもらった。
 
 他にも精査必要な子なこどももいて、以前ノーランの件で知り合った医師のキャルやそのお友達の医師など、いろんな人たちが協力してくれた。
 遠くからきたわたしたち日本人でも、この行き場のなく続いていた苦痛に小さな解決をしてあげることもできることを次々知っていく。
 こんな小さな自分たちでも小さなことができる。
 日本人がもっとたくさん立ち上がったら、一気にこの国のひとたちの苦しみは解決できるんじゃないかな。
 
 ただ、私は、ハニーンが色紙に描いてくれた3枚の愛らしい絵をもらってかえり、
ハニーンの笑顔を思い出すたびに、やり場のない悲しみにおそわれた。
 
 その絵の1枚に、ハニーン自身が楽しそうにテニスをしている姿が描かれていた。
 
 こんな結果になるとは思っていなかった。
 2003年イラクへのミサイル攻撃が始まるのを私はお茶の間で見た。
 ミサイルの先に自分のこどもたちがいたら、その前に立ちはだかってでも止めただろう。
 遠い国のことのように思えた。
 無関心からのとてつもない結果は、あまりにも甚大だった。
 爆撃で直接被害にあった子、混乱の中から逃れたものの必要な医療が受けられなくなった子、親も殺されて病院さえも行くことのできない子、病院へ行っても薬が足りない。点滴の針がない。水が出ない・・・。
 私たちがやっている小さなことは甘い「支援」ではなく、「償い」であるはずだ。
 「ごめんなさい。」をするのは政治とかぬきにしても、純然たる人間としてあたりまえだ。
 なんでイラクの人たちはみんな、わたしたちに、笑顔で、あるいは涙を流して「ありがとう。」というのだろう。
 「あなたたちは『ありがとう。』って言うんじゃなくて、私たちが『ごめんなさい。』と言わなければいけないんです。」と言っても、みんな、ただただ「ありがとう、ありがとう。」
 
 「報復」よりも「無邪気な感謝」のほうが、胸に突き刺さる。
 「良心の連鎖」を発しているのは、私たちではなく、
 まぎれもなく『イラク人』の方だ。
 
 遠い国のこどもたちではなかった。
 その「とてつもない結果」のリアリティとは、破裂し、お腹中にばらまかれた癌細胞により、かわいい体にそぐわない、ぱんぱんになったお腹だ。
 その現実が目の前にいる。
 その声、その笑顔、やりたいスポーツ、タンスからだしてきたお人形・・・日本にいる私のこどもたちと全くかわらないではないか!

 難民キャンプへ行く日がきた。
朝4時30分に出発し、別のホテルで中田さんをピックアップし、砂漠の一本道を東に向って走る。
 
 
 今回はスマイルのこの3人と、佐藤真紀さん、加藤たけくん、中田英寿さんといつものタクシーの運転手アブ・サリーヌの7人だ。
 
 加藤君はクウェート大学の留学生。
 アラビア語がペラペラで通訳してくれる。
 9,11事件がおこった直後、世の中がイスラム教徒を悪く言っていたとき、「イスラム教って本当に悪いのだろうか」と疑問をもち、クウェート大学に留学しイスラム教を学んだ。
 そう、まさに「目覚めている若者」だ。
 携帯メールやコンピューターゲームばかりして頭の前頭葉の血流が低下していては、決してそんな発想にならない。
 きっと何かに洗脳されてしまうだろう。
 
 彼は「イスラム教の教えそのものの中にこの紛争を終わらせることのできるものがある。自分たちで終わらせることができるのだ。それを知ってほしい。」
  と真剣なまなざしで言う。
 
 中田英寿さんは、とっても穏やかな優しい人だった。
こんなに暑いのにイスラムの人たちと同じように自分自身もラマダン絶食をしていた。
 
 前日はアンマン市内で取材などもあったみたいだけど、難民キャンプへは一人でひっそり来られた。当然だけど、うがった見方をするひとたちの使う言葉、バイメイなんとか・・・では絶対ない、というより、誰もそんな次元に生きてない。
 道中のマーケットで難民の人たちからのリクエストの靴を大量に買った。
中田さんが難民のこどもたちにあげるためにもってきたサッカーボールを店のおじさんがしきりに「自分の1歳の息子にくれ。」と言ってきた。
 「だめだめ。」とみんな怖い顔。

 店先にトマトとキュウリがたくさん置いてあった。
「アブー、野菜もって国境こえられる?こどもたちに新鮮な野菜を食べさせてあげたいのよ。」
 あの子たち、じゃがいもばっかり食べている。ビタミン不足だ。
 
 すると中田さんが、店のおじさんに「サッカーボールと野菜をトレードしよう。」
おじさんはビニールの袋をくれて、「好きなだけもっていっていいよ。」
 夢中でトマトを袋に詰めた。
 
 1個のナイキのサッカーボールが100個のみずみずしいトマトとキュウリにかわった
 さきにルウェーシッド難民キャンプへ寄った。
ほとんどの家族がスウェーデンやブラジルなど受け入れ国が決まって、あと3、4家族だけが残されていた。
 あのデイアラちゃんの家も受け入れ先が決まらず、残っていた。
 みんなでその家族のテントを訪問した。

 お父さんとお兄ちゃん2人、小さな弟と、みんなで車座になってお邪魔した。
 お父さんが言った。「もうすぐこのキャンプは閉鎖される。」と。
 えーっ!
 この家族は行き場がなくなる。
 この小さな子はどうなるの?
 どこか受け入れてくれないの。日本は? まずダメ。
 数日後のこの家族の運命を案じた。

 誰かが、「この人、サッカーのナカタだよ。」って言った。
 お兄ちゃん達は何度言われても、まさか、という顔で笑った。
 急にお兄ちゃんたちの視線がナカタさんに真剣に向いた。
 あっ、気がついた。
 すると、突然、3人とも、どこからともなくサッカーボールを出してきて、
 狭いテントの中でバシン、バシンやりだした。
 夢中で球を蹴っている。
 びっくりした。
 「サインして」でもなく「握手して」でもなく、なんの会話もなく、
 とにかくサッカーボールを夢中で蹴っている。
 すごい・・・。
 バシン、バシン、バシン・・・。
 この家族の数日後の過酷な運命は、どこか別の世界へ飛んで行ってしまった。
 もうその話にはもどらないまま、さわやかにお別れした。
  
 そのあと、小さな弟を一応、診察した。お姉ちゃんが癌であったのもあり、一応、リンパ節とかおなかとか触りたかった。けど、その必要はなかった。
 ナカタさんが「健康ですか?」と明るく声をかけてくれた。
 生命力がみなぎっていた。
 医者は必要なくなった。
 きっと、この家族は力強く生きていくと確信した。
例のごとく、わずらわしい手続きを繰り返し、国境をこえて、ノーマンズランドへ到着した。
 みんなにまた会えた!
 BIG HUG!
 さあ、クリニックをやろう!
 あれ?
 みんな集まってくれない。
 みると、みんな、「ナカター、ナカター。」といつまでもナカタさんに群がっている。
 通訳の人に「早く仕事しようよ。」といっても
 「あとから。」 
でも、難民のみんな、本当に幸せそうな笑顔だ。苦しみなんてなくなってる
 
 そんなみんなの表情を見ているととってもうれしかった。
 たくさんのサッカーボールのおみやげも、きっと今日からのみんなをもっと明るくするだろう。

  しばらくすると、やはり、患者さんがたくさん集まってきた。
 今回は、許可時間は1時間だけ!
 
 あるテントを訪問した徳子さんと久美さんからSOSがきた。
 46さいの女性が数日前から動けないという。
 うわー、1時間で、今回は医師一人で、大人も子どもも 診なければいけない。
 急いでテントへ走り、診たら、全身状態もかなり悪く、お腹には腹水がたまっていた。前回の入院で腹部に癌はないということだった。
 細切れの過去のメディカルレポートをかいま見、
 
 「肝障害による低アルブミン血症による腹水などが考えられます。心臓の問題からの可能性も否定できません。糖尿病もあり、全身の系統的な検査と集中治療が必要です。すぐに国連にお願いします。」
 検査キットや治療薬をもっともってくるべきだった。毎回反省点が出る。

私の話を聞きながら、前回一生懸命診療を手伝ってくれた若者が泣いている。
 この女性の息子さんだ。
 小難しいことを言うのをやめよう。 
 「心配しないで。入院できるようにお願いするから。
 I promise. 約束します。」
 女性は力をふりしぼってわたしの手にキスをした
 仮設診療所にもどると、たくさんの患者さんが待っていた。
 またすごいスピードで診療。
 徳子さんと久美さんの、キャンプでの診療の腕が確実に上がっている。
 今度から、「そのへんのどんな医者」を連れていってもこの二人のフォローでなんとかなるだろう。「そのへんの医者」の第一弾が自分だったりして。
 たけくんは、通訳しながらビデオもとっていた。
 彼の通訳は、すごく共感的なので、みんな安心して彼に訴えていた。
 
 ナカタさんも明るく声をかけてくれた。
 難民の人の話を真剣に聞いていた。
 
 真紀さんはやっぱりいろんなところで「マキ、マキ」と呼ばれ忙しそうだ。
 この人の現地でのいろんな人たちからの絶大な信頼で、国連さえも難しいのに、
 私たちはここへ入れる。

 はにかみながら診察を受けるこどもたち。
 心雑音の子、胃腸炎の子、とげが刺さった子、溶連菌の子・・・。
 大人も混じる。
 イラク兵も「僕も診て」・・・「だめだめ。」
 前回のようにその場で薬をあげて、クリティカルな子は国連にレポートを提出する。
 私の話を聞きながら、前回一生懸命診療を手伝ってくれた若者が泣いている。
 この女性の息子さんだ。
 小難しいことを言うのをやめよう。
 
 「心配しないで。入院できるようにお願いするから。
 I promise. 約束します。」
 女性は力をふりしぼってわたしの手にキスをした。
 
 
 仮設診療所にもどると、たくさんの患者さんが待っていた。
 またすごいスピードで診療。
徳子さんと久美さんの、キャンプでの診療の腕が確実に上がっている。
 今度から、「そのへんのどんな医者」を連れていってもこの二人のフォローでなんとかなるだろう。「そのへんの医者」の第一弾が自分だったりして。

 もう帰る時間だ。もう時間がない。いろんな人が次々訴えてくる。
 重症なこどもが優先だ。
 
ひとりの男性がテントの中で動けない35歳の妻をみてほしいと言う。
 あー、行けない
 今回はすごく短い。すると、さっきまで元気にお手伝いしてくれていたイマーちゃんが急に、「右肩が痛い。」と言い出した。かわいい顔を精一杯ゆがめて、とっても痛そうに腕が上がらないと。
 
 私は整形は苦手なので、ナカタさんに診察してもらった。
 テントの内外で難民の人たちとナチュラルに交わっていたナカタさんは快くみてくれた。
 
 明るくおしゃまな彼女もこの生活のつらさを7歳の小さな肩にしょってるんだ。
 
 ノーマンズランド・・・誰もいないはずの国・・・世界はここを見捨て、この子たちの未来を否定しているんだ。
 いろんな大人の過ちを世界は蓋をしようとしても、この子たちの輝きは、それをさせないぞ。と言っている。
 残念ながら、私たちの国はまだまだこの人たちを受け入れる段階には進化していない。
 
 それでも、これからも、「世界は君たちを見捨てていないよ」というメッセージを送り続けよう。
 それが私たちが私たちの国の本当の進化を信じているよ、「見捨てていないよ」というメッセージだ。
 私たちのこどもたちが、この国のこどもたちと、BORDERなく、
 一つになって手を握り会う未来を信じたいから。
 
 またわずらわしい国境越えのセキュリティチェックなどの手続きをして、
 ヨルダンにもどった。

 帰りの車の中で国連に電話してあの女性の治療をお願いした。
 国連の人は「彼女は精神的な問題じゃないの。」
 「そうじゃないんです。彼女はすぐに集中治療が必要なんです。」
 こんなときはいつも「幸福の王子」は、頼もしい「騎士(ナイト)」になる。
 「とにかく帰ったらすぐにレポートを出そう。」
 アンマンに戻るのは夜だ。帰ったらすぐにレポートを作ろう。
 まきさんが国連に提出してくれる。
 きっと動いてくれる。
 
 砂漠の中の夕日は優しかった。
 みんなでレストランに寄った。お仕事のあとのアラビア料理はやっぱりおいしい。
 ナカタさんだけラマダン中。水も飲まない。
 目の前で自分たちばっかりごめんなさい。
 
 ナカタさんは、心の中に国境のない人なんだな。
 こんな人種が増えたら、戦争ってなくなるのにな。
 
 「医療」だけじゃなかった。
  国境をこえて、人々の内なる生命力を引き出し、輝かせるもの・・・。
 
 「サッカー」も、スポーツも音楽も、絵も・・・。
 国境のないもの・・・きっとほかにもあるはず。
 
 これからも、心に国境のない人たちと国境「BORDER」をこえたい。
 
 ナカタさん、難民のみんなに「希望」をくれてありがとう。
 翌日はいったん帰国する日だったが、都市難民の人たちが何人か往診を希望しているということだったので、朝から飛行機の時間ぎりぎりまで、往診にまわった。
 
 最後は、もう久美さんも徳子さんも道路脇でタクシーの乗り込んでいて、私は玄関先でこどもを診た。十分診られなかった。たけくんがまた訪問してくれるという。なんてありがたいんだろう。
 都市難民への訪問は、また近いうちに行かなければいけない。
 なにしろ、アンマンだけで70万人以上だ。
 たくさんの医師たちにきてほしい。みんなでチームつくってたくさんの家をまわりたい。帰ったら、いろんな先生に声をかけよう。
 
 日本へ帰国したら、私の夫が、連日連夜の診療に、一番上の子のお弁当作りに、一番下の子の夜泣きに、へとへとに疲れていた。
 2泊だけの日本滞在も、こどもたちと過ごし、夜は1歳の子の夜泣きに添い寝で授乳した。
 
 一番下の子は何度か熱を出したらしい。まだ少し風邪気味だ。
 ハナグスグスの声で「アンパンマン!」と何度も叫んでおむつ替えをいやがり逃げる。
 ヨルダンから帰って、普通の3児の母親を1日半だけやって、気になりながら、再びニューヨークへ徳子さんと経つ。
 このつかの間の親子の再会を取り計らって飛行機をとってくれた徳子さんが私につきあってくれた飛行距離は地球儀でみてみると、ぐるぐるこっち回して、反対回して、ちょっとびっくり。この人の心の優しさに比例する。
 でも二人ともちょっと疲れ気味。
 タクシーの運転手が「アラビア人は爆弾もってるから、何考えてるかわかりませんもんねー。」
 愛らしい罪のない病気のイラクのこどもたちを思い出し、「一羽ひとからげ」にアラビア人を語るそいつを殴りたくなったが、
 ステレオタイプなニュースの報道しか知るすべがなかったはずだ。
 それが、私たちはこんなにイラクのこどもたちと触れ合える機会をいただいている。
 ちゃんと伝えていない私自身の罪が一番重い。
 殴るべきはじぶんだ 、と悟り、この気持のまま、ニューヨークへ経った。
 「ちゃんと伝えましょう。」徳子さんは涙を浮かべてそう言った。
 
 ニューヨークでは国連総会にあわせ、「劣化ウラン弾禁止」を、「地雷禁止条約」と同じように、世界の条約にしよう、とチャーチセンターへ世界中から、科学者や、NGOの人、医師やアメリカの帰還兵、法律家、世界で初めて劣化ウラン弾禁止国になったベルギーのNGOの人たちが集まった。
 イラクで何百万トンも落とされた劣化ウラン弾は、放射能をもち、半減期が四億年、その環境にいつまでも残り、人々の遺伝子を傷つけ、こどもたちや爆弾を落とした兵士などに、白血病、癌、奇形を発症させる。

 戦争が終わった後も、その国の人々を苦しめる、という点では、地雷やクラスター爆弾と同じだ。地面に潜むだけでなく、人間の遺伝子に潜む、という点では、さらにひどく、また、放射能という目に見えないもの、遺伝子レベルのものであるから、学術的な証明も必要だ。
 さらに、これは「戦争」と「環境」と「人間、とくに子供の命」がキュッとリンクする、まさにこの世紀の人類が解決すべき課題をわたしたちに提示している。
 「あの国のひとたち」だけの問題でなく、「地球」の問題なのだ。
 2日にわたり、朝から夕方まで熱いカンファレンスが続いた。

 まず冒頭で、佐藤真紀さんのスピーチだ。
 「イラクの、白血病や悪性腫瘍で苦しこどもたちの絵をたくさんもってきました。
 ここには、強いメッセージがあります。ここから『何か』を感じてください。その『何か』がとっても重要なのです。」
 その会議室の一角に、子どもたちの絵を真紀さんがポスターにデザインしたものを20枚くらい徳子さんたちと飾った。
 
 自画像のかわいい女の子の絵、男の子の絵、お花の絵、生前の明るい笑顔の写真、あの子が言った言葉「死にたくないの。」「鼻血が止まらなくなると僕、かっこわるいんだ。」・・・
 殺風景な会議室が、賑やかにかわいらしくなった。
 たくさんの人たちが見てくれた。
 「病気なのに希望にあふれてる。」「心のなかに平和を築いている。」「これがなかったら、このカンファレンスは盛り上がらなかったわ。」
 とってもうれしかった。
 
 数日前に卵巣がんのハニーンが描いてくれた小さな3枚の絵を私は持ってきていた。真紀さんと徳子さんが額縁を買ってくれて、一緒にかざってくれた。
 どうしてもこの絵を見ると涙がでてしまう。
 「この絵、すごく生き生きしていますねえ。」
 明るい日本人女性が声をかけてくれた。ユミコさんといった。
 
 ランチをみんなで食べた。ナホコさんという人にあった。
イラクへの空爆や密室攻撃で被害にあった人たちに緊急支援を続けているという。
 
でも、何かまだ心に傷をおっているようだった。
 私は無知から彼女の心の地雷を踏んでしまった。ごめんなさい。
 日本のメディアは何かやり忘れていることがないだろうか。
 こどもだって相手を傷つけたら「ごめんなさい」と言えるのに。
 お医者さんだってセールスマンだってその後のフォローアップをする。
 疲れている彼女しか覚えていない。
 こんなに復活して頑張っている彼女をなんで伝えないのだろう。
 そういえば、わたしたちにも、テレビの取材依頼はいまだによくあって、放映日時もスタジオに行く日まで決めてこられることもある。もちろん、私たち自身、そんな器(うつわ)ではないので、有り難くも丁重にお断りするのだが、

 「イラクのこどもたちのことを伝えてくれるなら。」と言うと、ごく一部の誠実に追ってくださる方以外、たいていみんな引いていく。丁寧な企画書を送ってくれていたのに、返事さえくれない局もある。
 「報道規制」ってあるのだろうか。
 そうでなければ、わたしたちのイラクのこどもたちへの頑張りがまだまだ足りないから時期じゃないのかな。
 カンファレンスでは、劣化ウラン弾と法律の問題、アインシュタインみたいな風貌の教授が、「劣化ウランは、地下水にしみって、方々に拡散する」と。

 「あなたがたの銀行に預けたお金が爆弾にかわって、イラク戦争をサポートしている」という専門家の話。
 そういえば、日本の「ミスチル」のつくった「バンクバンド」のDVDにインタビューで出てた田中優さんを思い出した。「未来バンク」という銀行をつくった人で、たしか同じ事を書いていた。
 さらに、医学博士たちによる、研究発表。
こんなに偉い人たちがいっぱいいるのに、なんか、カジュアルな学級会みたいなオープンな雰囲気もあり、私のようなものでも質問できて、丁寧に答えてくれる。
 
 1日目が終わって、国連チャーチセンターに事務所のあるピースボートの素敵な人たちや、日本とニューヨークへ行ったりきたりしているというお坊さんたち、カナダのピースフィロソフイ・センターで子供たちに平和教育をして働く日本人のユミコさんというすっごいネアカな女性。たくさんの人たちと中華料理やさんで食事をした。
 世界平和を願って日夜がんばっておられる人たちのお話は腹をかかえるほど楽しかった。
 お坊さんたちは、憲法9条世界大会の日に、日本をピースウオークするそうだ。
 「憲法9条はただの法律ではないんだよ。世界中の人たちが守りたい、人間としての高い精神性なんだよ。」
 昔のお釈迦さまがお経を人々に説いて歩いたように、現代のお坊さんは「アーティクル・ナイン」を説いて歩くんだな。素晴らしいお話、帰ったら、加納さんに聞かせてあげたい。
 あたりまえのようになってたけど、日本の憲法9条って、世界中が尊敬しているものなんだ。いつも甘えていて、大切さに気付かない。でも、とっても大事なもの。
 私にとっては、私の優しい夫みたいなものかな。
 
 夜、真紀さんから電話。
「国連から連絡があって、あの46歳の女性が入院後亡くなったらしい。」
 あのときの映像を思い出した。
 テントの中で、土の上にマットをしいただけの病床で、私の手にキスしてくれた、息絶え絶えの女性・・・心配そうな息子さんの涙・・・。
 でも、国連は動いてくれたんだ。
 最後はキャンプの中で世界から見捨てられて、ではなく、入院してから看取られたのだ。
 でも、私たちが行かなかったらどうだただろうか?
 もっと早く行っていたらどうだっただろうか?
 戦争がおきなかったらどうだっただろうか?
 これからもあのキャンプの中で大病や大けがの人がでたら、どうなるのだろうか? 
 その晩は、マンハッタンのど真ん中の小さなホテルで久しぶりによく寝た。
夢の中で「ぺちゃくちゃ。ぺちゃくちゃ。」子供たちの明るい声が聞こえる。
 いい目ざめだ。
そうだ、私たちは、こんなにかわいいイラクのこどもたちをたーくさん連れてきたんだ!
 亡くなってしまった子、闘病中の子、治る見込みが厳しい子・・・。
でも、かわいそう、という大人の思惑をよそに、こどもたちは生命力にあふれた天使のように思えた。
 だから、絵をみたみんなが、「かわいそう」と言わないで、「希望にあふれている。」と言ってくれるんだ。だから力強いんだ。
 
 今朝も徳子さんと真紀さんと歩いて国連前のチャーチセンターへ向かった。
カンファレンスはまた熱かった。
 でも、参加するはずだったイラク人医師は、アメリカへ入国許可されず、このカンファレンスに参加できなかった。
 劣化ウラン弾で攻撃されたイラクのこどもたちの話より、どうしても、アメリカ帰還兵の健康問題という話に方向が向ってしまう。
 
 最後に佐藤真紀さんのスピーチの番だ。
 彼は、強い口調で「この会議にイラク人医師が参加できなかったのは、本当に遺憾です!」イラク人医師は、劣化ウラン弾の影響ででイラクのこどもたちに白血病が増えている、という疫学の話に来る予定だったのだ。
 真紀さんは、今日は頼もしい「ナイト」のほうだ。
 そうだ、そうだ、というかんじだ。
 
 ユミコさんが質問した。
 「劣化ウラン弾のポジティブな使用法ってありますか?」
 すっごいポジティブな人だ。「コンフリクト(戦い)の中にポジティブなアスペクトを」というテーマで平和を研究している。一度のディボースの経験から人生をさらにアップしてきたという彼女ならではの発想だ。
 
 私も徳子さんも、二人で交わした約束通り、ちゃんと伝えた。
「イラク人がここに一人もいないのは残念だけど、私たちはたくさんのラブリーなイラクのこどもたちを連れてきました。
 どうか、イラクのこどもたちを忘れないでください。
 世界中のこどもたちの希望の光を消さないでください。」
 
 かわいい天使たちにみんなが拍手してくれた。
真紀さんのアピールの重要性を司会の人が強調した。
 
 会場の人たちから、この絵をチルドレン・ミュージアムにして、全米をツアーしよう、とか、世界でもちまわりでこの絵を展示しよう、という話が盛り上がった。
 すごい!
 この子たち。全米、全世界のバスツアーに行くんだ!

 イラク攻撃が始まる前に、「イラクはそんな国じゃない。って言って、イラクの子供たちの絵と日本の子供たちの絵を交流させて、絵本にし、イラク攻撃を止めようとした真紀さん。いつも病気のこどもたちに絵を描かせて希望をもってもらおうとした真紀さん。バレンタイン作戦も子供たちの絵。
 このこどもたちの絵が世界を変えるんだね!
 
 真紀さんと徳子さんとみんなで喜んだ。
 最後のパーティでは、このカンファレンスに来た人たちみんなと仲良くなった。
 コスタリカの人が「来年はコスタリカでやろう!」
 
 みんなですしバーで食事をして別のホテルのユミコさんと別れた。
ユミコさんはハニーンの絵を1枚カナダに持って帰ってくれる。
「カナダのこどもたちに見せて、みんなでこの子が元気になるのを祈りますね。」
 「想い」って遠く離れていても、つながっているんだな。
 世界中のたくさんの同じ想いの人たちに出会えたことに感謝した。
 
 帰りの飛行機の中で、私は放心状態で珍しく機内のお笑い映画を見てしまった。その横で、徳子さんは、次回に向けてドイツ語の勉強をしていた。
 「ハニーン、テニスができるようになるといいですね。都市難民の人たち、まだまだ気になりますね。キャンプの人たちの予防注射も。今度は11月ですね。」
 
 私は、ヨルダン、イラク国境、今回で5回め(スマイルとしては7回)になるが、
行くたびに、すさまじい喧噪の中で、あとから思い出し、必ず毎回助けを求めてきた誰かを見捨ててきてしまい、必ず毎回やり残したことをつくって日本へ帰る。