アッサラーマ 
 
加藤ユカリ
・第1回報告 加藤ユカリ
・第2回報告 大向徳子
・第3回報告       
・第4回報告 中村久美
・第5回報告       
・第6回報告 大向徳子

・医療支援報告と心臓病のノーランの話 加藤ユカリ
第7回報告 加藤ユカリ  
・第8回報告 
第9回報告 加藤ユカリ

第2回オーストラリアミッション 大向徳子
第10回報告 加藤ユカリ
第11回報告 加藤ユカリ

 「ドクトール、お願い、あの赤ちゃんは点滴が必要なのよ!」

 ルウェイシッドの砂漠の一本道に立つひなびた病院の前で、日本人留学生の愛ちゃんに借りた携帯電話で叫んでいた私の声は、わが子の無事を祈る母親の泣き声に似ていたかもしれない。

 難民キャンプや途上国での医療は10年近く心に温めて消せずにいた想いだった。県外からも5分おきに運ばれてくる小さなこどもを乗せた救急車・・・レジデントのときに、そんな現状を目の当たりにしたとき、「日本の夜間の小児救急医療こそが難民キャンプだ!」と悟り、その道に入り、スマイルこどもクリニックを主人とつくった。

 今回、様々な人たちとのご縁と支えでその一歩を踏み出させていただくことができ、感謝の思いでいっぱいだ。
 アンマン到着後すぐに、JIM−NET会議をオブザーブさせていただいた。ジャナン先生とは半年ぶりに再会し、友情を確かめ合った。こんなに大変な中でもイラクの医師たちがたくさん参加し、「なんとかしたい」思いが伝わった。劣化ウラン弾の影響で増え続ける白血病や悪性腫瘍のこどもたち。日本では80パーセントが生きられる病気なのに、戦争や経済制裁で薬もなくインフラも破壊され、イラクでは次々に苦しみながら死んでいく。でも、チェルノブイリで実績のある鎌田先生が立ち上がってくださることで、きっと、「死なないですむ子」がたくさん増えると期待を持った。「がんばって」ほしい。皆さんも鎌田先生を応援してください。

 2晩にわたる会議のあと、みんなで不思議なラーメンを分け合って食べた。ここにいる人たちは、みんなすごいなあ。明日はいよいよ難民キャンプへ出発だ。私は自分のバッグを丸ごと、中華料理店に忘れた。1時間くらいして思い出し、電話したら、そこの人がホテルまで届けてくれた。ヨルダンって、アラブって、なんていい国なんだろう。実際、本当にヨルダン人は温かい。

難民キャンプでのこどもたちへの医療は、日本国際ボランティアセンター(JVC)で10年中東にかかわっておられる佐藤さん、命をかけてイラクのこども達を守る原さんの様々なネットワークによるきめ細やかなコーディネートと、国連UNHCRのウエルカムなコーディネート、ヨルダン王室系NGO、ハシミテ財団の人たちの親切なお世話、チェルノブイリ医療基金で海外支援歴3年の松澤先生、鎌田先生の指導、アンマンの病院に常駐されている井下先生の指導、で実現した。
そして日本のスマイルを守ってくれているスタッフや遠方からも応援にかけつけてくださった先生、踏ん張ってくれている常勤の先生、そして、留守番してくれている子供たちと、それをみてくれている心配そうな私の父母・・・。
一緒に来てくれた、加納事務長といつも大切なときにはそばにいてくれる最愛の夫、隆医師。
たくさんの人たちの支えで行かせていただくことができました。

 1日目は、アンマンから砂漠の1本道を通ってイラク方面へ3時間ほど車で行ったところのルウェイシッドというところにあるAキャンプ。まず私は「つらそう」という中年の女性を診察した。触診すると、彼女は腹膜炎をおこしていてすぐに入院精査、結果により手術が必要だ。そのよこで病状を「大丈夫、大丈夫」というかんじで明るく説明する男性は、現地の医師ドクトールだった。前医の診断に気をつかいながらも腹膜炎を主張したら、彼はあっさり、ルウェイシッドの病院へ紹介の手続きをとった。彼女はさらに首都のアンマンの病院へ転送になったらしい。彼女の無事を祈りたい

 現地のこども達は本当にかわいかった。ただ、様々な疾患が放置されており、現地のドクトールに逐一説明し、フォローをお願いした。ドクトールは明るく「OK、OK」と言った。日本の医師が尊敬されるのは、先人の先生がたや、日本の高度成長を成し遂げた、今の日本のおじさんたちのおかげだ。

 そのAキャンプはハシミテ財団や国際的NGO「CARE」がよくケアしていた。女の子達は明るくはしゃいでいた。見たところ、こどもには悲壮感はなく、栄養状態もよかった。そこの12歳の女の子が、私の聴診器に興味をもってきた。同じくらいの年の私の娘を思い出させる、はしゃいでまとわりついてくるしぐさ。私はそれを彼女にあげた。彼女の首にかけてあげて、「今日からあなたが、ここのドクトーラ。お友達の病気を治してあげてね。」その子は聴診器を首にかけたまま、スキップしていった。まるで○○○(娘の名)だ。アラビアも日本もどこも子供は共通だ。

 ハシミテ財団のひとたちと夕食を過ごした。キャンプの統括の人は豪快なおじさんで、日本人の私達は「酋長」と呼んだ。でも、私の写真を携帯でとって「壁紙」にするって、とってもおちゃめだ。この国の男の人は腹から声を出す。

 ルウェイシッドのホテルに泊まった。とても寒くて汚かったけど、熟睡した。

 翌日はノーマンズランドのKキャンプだ。ここはヨルダンでもイラクでもない、まさに国境上の無法地帯。土砂の中にあって、ルウェイシッドとはまるで違う。柵のむこうの難民の方たちの目つきはするどかった。でも、トラックから降りて「マッサラーマ、アレイクム!」と笑顔で挨拶すると、みんなの顔が少し緩んだ。握手もしてくれた。

 さあ、ここで、170名のこどもたちのメディカルチェックアップだ。午後3時までに終わらせ、国境へ戻らないといけない。でも、普段、医師のいない(いるけど)お父さんやお母さんたちはたくさんの不安をぶつけてくる。当然だ。わが子を心配するのは親だからだ。「いつも目が赤いんですけど。」「よく熱を出すんですけど」「よく鼻血がでるんです」・・・その内容が日本のお父さんお母さん達とまるで同じで、小児科医として感じるフィーリングも、小児科医の目からうつる絵画というのか、こどもを心配する母の背中の角度やそんな心配とうらはらに話をたいくつに待つこどもの姿・・・日本の親子と難民キャンプの親子とまるでだぶる。ただ、ここのノーマンズランド(誰もいない国)に閉じ込められ、特別な手続きをしないと出られない彼らの国には小児科クリニックがない。

 このフィーリングから、彼ら、イラクから逃れてきた人たちは、もともと日本とあまり変わらない高い生活感覚をもち、戦争でおわれ、ここでの生活を強いられていることがはじめて実感できた。日本がもし、こんなことになったら、よその国の人たちは私達や私達の家族を助けてくれるだろうか。

 ここのドクトーラも明るく憎めず、人懐こく、患者さんに何もしてくれていなかった。(ように思えた)生後1ヶ月の下痢の子が放置されていた。しかたなく、クルド人のお母さんは、何らかの植物を粉にして飲ませる民間療法で少しずつ改善してきていると言った。「生後2か月以下の赤ちゃんの嘔吐、発熱、下痢は、必ずケアしてください!」ドクトールは明るく「OK,OK」と言った。大丈夫だろうか。

 もう、時間がさしせまている。特設クリニックの外に、どこで出回ったのだろうか、私達が子供たち用に作って持ち込んだカルテの用紙を1枚ずつ持って、大人の大群が押し寄せていた。「頭がいたい」「足が痛い」「ガンがわかったのに何もしてくれなかった」・・・現地のスタッフに早く、と巻かれながら、できるかぎり対応した。大人のほうが精神的に深刻かもしれない。

 「あと2人、兄弟を診て欲しいんですけど」
 1歳の兄は胃腸炎だ。でも回復している。生後2ヶ月の赤ちゃんのほうが心配だ。ゆうべから数えきれないほどおっぱいを吐いているという。隆医師を見て、力なく、でも天使のような笑顔をつくっている。私と愛ちゃんは、彼らのテントの中に行って、飲む様子と吐く様子を見せてもらった。土の上にマットをしいただけのテントの中でお母さんは赤ちゃんに母乳を飲ませた。哺乳意欲はまだあるものの、飲むそばから吐き、再度激しく吐いた。吐物に胆汁が混ざっている。入院して検査や点滴が必要だ。

 今はまだ元気そうだが、生後2ヶ月だから、だんだん弱ってくるかもしれない。死ぬ可能性もある。私達はもう、国境に戻らないといけない。ここで点滴しても、最後まで診てあげられない。ドクトールを説得して、(すごく大変だった。通訳の愛ちゃんは半分おこっていた。)国境を越える手続きをして、ルウェイシッドの病院へドクトールに紹介状を書いてもらい、救急車が迎えにきた。

 一緒に乗ればよかった。たくさんの大人の診察を待たせていた。「早く来てください。」難民で、看護師の女性が呼びにきた。
 限りない症状を訴える彼らに紛れ、自分たち自身のおかれた境遇よりも、私達に一生懸命、感謝の気持ちを伝えてきてくれるイラクから逃れてきたクルド人やパレスチナ人たちがいた。難民でありながら、身なりは立派で、紳士、淑女のきれいな英語の話し方だった。もと文化人だった人もいた。このような状況でも人間の尊厳を失わずに生きている彼らを私はきっと真似できない。

 難民認定を2年も待ってハンガーストライキをしている人もいる。帰りに私達がチョコレートをこども達に配ると、「やめなさい」とこどもをしかる人たちもいた。せっぱつまった人たちに何もしてあげていない日本人であることを今度は恥じた。

 帰りにルウェイシッドの病院へ寄って赤ちゃんの様子をうかがうことになった。「一人でも死なないですんだ子がいてよかったね。」と少し満足して話していた。病院へ行き、そこの医師へ聞くと、・・・赤ちゃんは薬だけ出して帰したという。愛ちゃんが真っ赤になってすごいアラビア語の語学力でおこった。私も下手な英語でおこった。吐いてるのに薬飲めないじゃないか。死んだらどうするんだ。私達は納得できなかった。そしたら、その医師が明日、現地のドクトールに電話して様子を確認し、必要があれば入院させると約束してくれた。

そして、病院から出たあと、ドクトールに愛ちゃんの携帯で電話した。ちゃんとやってよ。という思いで、「お願い、プリーズ、ミンファドリック!」ドクトールは「OK、OK」と言った。「私は一緒に救急車に乗っていくべきだった。」そう言うと、ハシミテ財団のモハメッドさんは、「大丈夫、神様が守ってくださるよ。」、コーランがアメリカ兵の誤射銃弾をデフェンスしてファルージャ作戦のとき命が救われたというムハムードさんも「優しい先生、僕達は共感している。」と言ってくれた。そこにいた、愛ちゃんも佐藤さんも松澤先生も井下先生も、隆ドクターもみんな一緒に病院へきてくれて、一緒に赤ちゃんの無事を祈ってくれていた。帰りの車の中で、私は現地のドクトールさえちゃんとやってくれたら、と批判した。 

でも、待って!

 イラク戦争にヨルダンは直接責任はなく、イラク戦争で出た難民をケアする責任はヨルダンだけにあるわけではない。むしろ、「無関心」という「大量破壊兵器」をもった私達の責任は?あのとき、私はノーと言っただろうか。ヨルダンは隣国なんだからちゃんとやってよ、と言うなら、日本の隣国の北朝鮮のこどもたちが飢えているらしい、と聞いても私達は医師として、何も責任を果たしていない。ドクトールはちゃんとキャンプに赴任している。4日交替で。たった、2日だけ行っただけの私が批判なんてする権利はない。

 だから、「一緒に」やっていこう。現地のドクトールたちと仲良く一緒にやっていこう。みんなで集まろう。みんなの気持ちを集めよう。難しく考えるとわからなくなるから、シンプルに助け合おう。わざわざ複雑に難しくしてしまい、多くの門外漢をつくってしまい、自分自身も門外漢にしてしまったのは私達だ。

 帰りに、国連UNHCRの人たちと一人一人握手を交わした。「君たちのお仕事はキープしておくよ。」
 「でも難民キャンプなくなってればいいね。」8月にまた、みんなで行こうと思う。

  ヨルダン・イラク国境地帯難民キャンプでの医療支援についての報告  加納 昭二

211日から17日にかけて、加藤隆先生・ユカリ先生、松本院の松澤重行先生と一緒に、ヨルダン・イラク国境地帯にある難民キャンプへ医療支援に行ってきました。現地では、著書『がんばらない』で有名な鎌田實先生、5年以上も海外支援をつづけておられ尺八の演奏も上手な医師、井下俊先生とも合流し、総勢5名の医師団となりました。さらに、ヨルダン大学に留学中でアラビア語通訳のNishikida  Aikoさんも参加、日本国際ボランティアセンターの佐藤真紀さん、原文次郎さん両氏の案内により、二つの難民キャンプで医療支援活動をしてきました

一行は、ヨルダンの首都アンマンから車で約3時間かけて難民キャンプへと向かいました。まずはキャンプ近くの国連事務所を訪問、挨拶を済ませたあと国連の車に乗り換え、キャンプ地へ入りました。

 訪問した二つの難民キャンプのうち一つは、難民数142名の「ルウェイシッド難民キャンプ」、もう一つは難民数736名の「ノーマンズランド難民キャンプ」と呼ばれるキャンプです。双方ヨルダンとイラクの国境近くにあるのですが、特に「ノーマンズランド難民キャンプ」は、2国の国境帯の中にあるもので、目と鼻の先はもうイラク領です。
 初日は「ルウェイシッド難民キャンプ」、二日目に「ノーマンズランド難民キャンプ」で活動しました。今回、診察の対象となったのは主に10歳以下の子供たちでした。「ノーマンズランド難民キャンプ」では、プレハブの仮設所で診察を行いましたが、診察が開始されると間も無く、仮設プレハブの前は長蛇の列となりました。このキャンプで日本の医師が診察することに大きな期待がかかっていたことを示す光景でした。こども達は、一人ひとり少し緊張した面持ちで医師の前に座り、ことばの障害があってもそれぞれの医師の熱意を感じ取っていたように思われました。
 診察は順次進んでいきましたが、なかには点滴をすぐにでも開始しなければいけない脱水状態の乳児もいました。その乳児は至急救急車で近くの病院へ搬送されることになり、難を逃れることができましたが、放っておいたら大変なことになっていたところでした。

また、血液検査や尿検査による精査が必要な子供たちも数名出てきました。難民キャンプには検査機器等などは用意されていませんので、日本でのようにその場ですぐ検査をするというわけにはいきません。症状の悪化した子供たちは病院へ運ばれるということになるのでしょうが、迅速で充分な医療を受けられない不遇は、少しでも改善される努力が必要です。

 いろんな子供たちが診察を受けにやって来ましたが、父母それに子供3人のある家族連れは、待ちわびてやっと自分たちの順番が回ってくると、なにやら安心した表情を浮かべていました。そのうちの一人の子供は、ベッドに寝かされお腹の触診を受けると、くすぐったそうにしていたのですが、家族みんなに囲まれて幸せなのでしょう、すばらしい笑顔をみせてくれました。そして、それを見守っている兄弟たちの目が透き通るように輝いているのに非常に強い印象を受けました。この時、この家族の絆は本当に強いのだなと感じました。自分たちの住む家も奪われ戦火の中を逃げ延びて来て、不便で貧しいキャンプ生活を長く続けているにもかかわらず、家族みんな一緒に懸命になって生きていこうというこの姿は、いったい何を表しているのだろうかと思いました。今回約200人の子供たちとその家族に接したのですが、何度もこうした光景に出会うことができました。
 一方視点を私たちが住む日本に移してみると、連日のように親殺・子殺、乳幼児虐待のニュースを聞かされ、物質・経済・効率を優先するいわゆる西欧近代化の先端をゆく国で起きているおぞましい事件の数々には、どうしようもない閉塞感を感じます。

難民キャンプの人たちの精神的な基軸にイスラム教があることはまず間違いないと思います(一部の民族には該当しないようですが)。イスラムの人たちがもっている世界観は、本当に大事にしなければいけないものを知っているものかもしれない気がしました。少し脱線しましたが、難民キャンプで見たいくつかの家族は、鈴木大拙さんが言っていた妙好人だった気がしてならなかったので、思いのまま書いてみました。
 さて、いずれにしましても今回の医療支援で得た体験は私にとり非常に貴重な体験でした。今後これをいかしてがんばっていきたいと思います。     第2回報告