「小児科医の発展途上国への国際協力」

 なぜ国際協力が必要か-難民医療支援の現状と若き医師への提言-

  加藤ユカリ(Yukari Kato)

     スマイルこどもクリニック http://www.smile.av.fm/

  横浜市戸塚区品濃町556-8

  電話045-820-6601 fax045-820-6698

  E-mail :yukarikatoh@yahoo.co.jp

要旨

スマイルこどもクリニックは、2005年2月より、日本や現地のNGOの協力を得て、イラク=ヨルダン国境難民キャンプや、都市難民とよばれる隣国ヨルダンの首都アンマンに逃れてきたイラク人への医療支援に計10回赴いている。今回、若き医師へメッセージを伝えさせていただく機会をいただき、感謝するとともに、自分自身もまだ若輩であり、発展途上国というよりは戦禍の国を逃れた人たちと、前もって敷かれたルートもなく、どのようにかかわるようになったか、今の段階で積み上げたことなどを著者自身のパーソナルな体験から述べさせていただき、日本の若き医師たちがさらにもっと素晴しい国際貢献をしてくださるための、ささやかな参考にしていただけたら幸いである。

 

はじめに

 著者は3児の母でもあるが、2人目を出産後、子供の命の大切さを実感するような個人的な体験から、下痢などで簡単に子供の命が失われるという発展途上国や難民キャンプで働きたいと願うようになった。そこで医師になって6年目のときに、精神科の大学医局を離れ、徳州会病院でスーパーローテートやERなどを研修し、小児科医に転向した。

小児科研修医のとき、県外からも数分おきに搬入されてくる小児を乗せた救急車を一晩中指導医とともに受け入れた。このとき「日本の夜間の小児救急が難民キャンプだ。」と思い知らされた。一見軽症と思われる中に重症な子、緊急性の高い疾患が潜んでいる。また気道確保やルート確保、酸素や薬物の吸入などを迅速に施すことにより、緊急性の高い疾患でも多くが劇的に軽快する。死に至らない状態で高度医療に繋げることができる。逆にもう少し処置が遅かったら、症状は急激に進行していた。などと認識するような経験を積み重ねるにつれ、患者さんの「入口」すなわち「命綱」である小児の一次救急が常に患者さんを拒否しないで受け入れることの重要性を認識し、同じ小児科医の夫とともに、2001年に24時間年中無休で急患を受け入れるスマイルこどもクリニックを開設した。同じ志をもつ多くの心ある医師たちの協力を得て、松本、浦安にも同じ診療所を開設した。

 

Ⅰ.イラク難民キャンプでの医療支援活動のきっかけ

この間も、難民キャンプでの医療支援をしたいという気持ちは温めてはいたが、イラクの難民支援をすることになったのは、さまざまな偶然の重なりだった。

2003年3月にイラク戦争が始まったとき、著者は恥ずかしいことであるが、無関心だった。

2004年6月に通り道で以前にニュースで見た女性にたまたま出会った。彼女はイラク攻撃をやめさせようと多くの一般市民とともに、渋谷でピースウオークをした人だ。「みんながノーと言えば戦争はおこらないはずだ。」と語っていた。そのときに隠していた罪悪感が噴き出たような気がした。

同じ月に、信州大学の学生たちが、日本のNGOと協力しあって、イラクの女医を日本に招いた。その講演会に行ってみた。そのジャナン医師は、バスラの小児病院での惨状を伝えた。イラクでは湾岸戦争やイラク戦争で大量に落とされた劣化ウラン弾の影響と疑われる、こどもの白血病や悪性腫瘍が非常に増えている。しかし、イラク戦争により、ライフラインが破壊されていて、病院に薬や点滴の針が足りない。水も電気もじゅうぶんにこない。悲惨な悪性腫瘍に侵されたこどもたちは、なすすべもなく次々に死んでいく。以前のイラクの医療水準は非常に高かったという。

私とクリニックのスタッフはその話に驚き、すぐに松本のクリニックから点滴の針を1箱もって、ジャナン医師が泊っているホテルへ乗り込んだ。何の変哲もない点滴の針を見た彼女が非常に喜ぶ姿を見て、その講演会の話が紛れもない現実であることを実感した。

その後、薬を送るためのお金などを支援していたが、お金のみの支援に、正直恥ずかしさも感じていた。

2004年12月、スマイルこどもクリニックの非常勤医師にたまたま紹介してもらったNGOの事務所を訪問した。あのときジャナン医師を招いた人たちだった。JIM-NET(日本=イラク医療ネットワーク)という。JVC(日本国際ボランティアセンター)のメンバー佐藤真紀さんがイラクの支援に特化した組織をつくり、放射性物質による悪性腫瘍を発症したこどもたちの医療支援に約20年の実績がある、JCF(チェルノブイリ連帯基金)の鎌田實先生に助けを求め、7つの団体が「ゆるやかなネットワーク」を組みながら協力し合って、イラクの4つの基幹病院に抗がん剤などの医薬品を提供したり、年に2回イラクの医師と会議をもって医療技術や知識を提供していた。

佐藤さんたちとは半年ぶりの偶然の再会だった。

そのとき、たまたま見せてくれたイラクの難民キャンプの映像に、わたしは興味をもってしまった。彼らはその中に図書館をつくり、絵本などを送っていた。

「医師はいるのか。」と聞くと、「ヨルダン政府から派遣された医師がいるけど、あまり診てくれない、と難民の人たちが不満を言っていた。行ったら、みんな喜ぶと思うよ。」と言われ、「行きたい。」と言ったら、3日後、国連からのメールの転送で、私はもう行くことになっていた。たまたまその直前に、国連の人が「女医に来てほしい。」と佐藤さんに話していたという。

 

Ⅱ.日本人医師の役割と医療支援継続の重要性

現地の人たちは何を必要としていて、私は日本人医師として医療行為はどこまでできるのか、など事前に聞いたが、はっきりしないまま、2005年2月に出発した。

スマイルこどもクリニックからは私のほかは、私の夫の加藤隆医師も同行した。ヨルダンでJIM-NETの会議があり、それにも出席し、イラク人医師たちと交流し、その後、私たちは、JIM-NETの鎌田實先生たちと難民キャンプへ出発した。

難民キャンプは2か所あり、ひとつはアンマンから車で砂漠の1本道を4時間ほどイラクのほうへ向かって走ったヨルダン国内にあるルウェーシッド難民キャンプ。もうひとつはヨルダンの国外にあるイラクとのまさに国境地帯にあるノーマンズランド難民キャンプだ。2日に分けて両方でこどもたちの健康診断を行った。とくにノーマンズランドのこどもたちは十分栄養をとっていないようで、いわゆるるいそう状態であった。また、ルウェーシッドではある大人の女性に腹膜炎の所見があり、ノーマンズランドでは2か月の乳児が激しいおう吐・下痢で脱水症状があり、どちらもヨルダン国内の病院に救急搬送の手配をした。

両者とも、キャンプ内に医師はいたが、確かに診ていなかった。また、病気であっても難民にとってヨルダンへの入国許可は非常に難しいことであるのだが、わたしたち日本の医師がお願いしたら、比較的スムースに国連や諸機関が動いてくれた。

著者自身は日本ではただの小さき医師であるが、10回の活動の中でこのようなことが数多くあり、イラク人を取り巻く厳しい環境の中で、日本人医師の役割はとっても大きいのではないかと感じた。

帰り際に、大勢の難民の人たちが「診察してほしい。」と押し寄せた。

セキュリティの理由で、私たちが国境の難民キャンプにいられる時間は限られていた。

許された時間の中でできるかぎり対応したが、多勢に無勢で、1回目は大きな無力感を感じることとなる。しかし、怒っているのかストレスをぶつけているのか症状を訴えているのか、何を言っているのかわからない大勢の人たちのすさまじい怒涛の中で困惑している私に、2人の難民の男女が逆に共感してくれた。

「来てくれただけでうれしいです。本当にありがとう。」と言ってくれた。

このような状況の中にも小さな人間の尊厳の光を見た気がした。イラク戦争が始まった直後は世界中がイラクに注目し、世界中からここにNGOが集まったという。そして徐々に撤退していき、ほとんど支援もなくなり、とくにノーマンズランドの難民たちは世界から見捨てられていた。イラク戦争開始後まだ2年だった。

難民の人のこの言葉は私に「世界はあなたたちを見捨てていない。」と伝え続けないといけないと思わせてくれた。そこで、小さなチームの小さな活動でも、そして今はまだ何ができるのか明確にならないが、まずはここへ赴き、顔を見せて、何が必要で何ができるか見極めていこうと思った。イラクから難民が出るかぎり、この活動を継続していこうと思った。

 JIM-NET会議がヨルダンで1年に2回開催されていたので、それに合わせたときと、さらに必要時に赴くことにした。

 この国境地帯の難民キャンプへの活動を継続していて感じたことがある。「人の命を助けたい。苦しみを癒してあげたい。」それが目的の純粋な「医療」は「政治」や「宗教」や「経済」、そして「敵と味方」さえも超越しており、その可能性は非常に大きいと思われた。常に「敵と味方」の存在する紛戦地であれば、なおさらその役割は大きなものとなるはずだ。

 そして先日、日本の国連UNHCRの人に、わたしたちの小さな活動に対し「国連にも政府にもできないことをしてくれて感謝している。」という言葉をいただいたが、それだけ「医療」とは国境のないものだと、この仕事に携われたことに改めて感謝した。

 しかし、1回目の帰国後すぐに私は3人目の妊娠が判明し、2回目、3回目の活動へは行くことができなかった。だがその小さな志はすぐにスマイルこどもクリニックのスタッフたちに伝わっていて、森田昌雄医師や加藤隆医師、薬剤師、看護師たちがしっかり継続、発展させてくれていた。3回目はもう難民の人たちは私たちを心待ちにしてくれていた。

 

Ⅲ.イラク難民のおかれている生活ステージ

 イラクから逃れた人たちのその後の生活のステージは大きく3つに分けられる。ひとつめは国連UNHCRなどが管理する難民キャンプでテント生活を送るひとたち。最低限の医療や食料は提供されるが、砂漠というエリアのため、環境は苛酷だ。二つめは隣国のヨルダンやシリアへ逃れ入国はするがそのうちビザが切れ、イラクへ帰ると殺されたりするため帰国できず、そのままヨルダンに留まって生活する人たち。不法滞在という形になるので、就労も許されず、保険にも入れないため医療も十分に受けられない。昨年、国連UNHCRヨルダンにはが把握した人数を発表したところによると、ヨルダンには50から75万人、シリアには120万から140万人といわれるが、隠れ住んでいるため、実際にはこれを超える人数であるといわれている。私たちはこの人たちを「都市難民」と呼んでいる。最近はヨルダンもシリアも自国の治安や経済的な安定のため、イラクからの入国を極端に制限するようになった。昨年から国連がこどもたちが就学できるようにしてくれた。3つめは、隣国にも入れず、イラクにも帰れない人たちは国境地帯のノーマンズランドにテントをはり生活する。国連も十分に管理できないため、わたしたちのようなプライベートなチームや国境越えするトラックなどから食糧や薬をもらって生活している。わたしたちがレギュラーで行っているイラク側のトリビルのノーマンズランドには約200人が生活している。半分がこどもであり、ここには医師はいない。

 わたしたちスマイルこどもクリニックは、この3か所の状況の異なるイラク避難民の医療支援を現場に赴いて行っている。

 

都市難民の状況も想像を超えるほどに苛酷である。そして、あまり知らされていない。知られてしまうと強制送還となってイラクで殺されるかもしれない。テレビのカメラなど絶対に危険だ。卵巣がんなのにお金がないため治療途中で病院を追い出され再発し、症状が進行したままの11歳の少女、赤ちゃんのときにイラクで爆撃にあい、成長とともに皮膚が硬しゅくして歩けなくなっていた4歳の男の子。拡張型心筋症のため慢性心不全があるのに、お金がないために病院へいけず、急性増悪で呼吸が苦しそうだがどうすることもできず家族で途方にくれていた3歳の女の子・・・。たくさんの都市難民を往診し、助けてあげたり、助けを拒否されたり、助けても結局亡くなってしまったりした。

 

Ⅳ.4歳の女児との出会いで学んだこと

2005年9月の3回目の活動の際、わたしたちのチームはある都市難民の4歳の女の子と出会った。その子を助けようと奮闘する中で、さまざまなことを学ぶこととなる。

その子の病名は、肺動脈閉鎖症を伴う心室中隔欠損症すなわちFallot 四徴症の極型だ。

PDAもあるために、逆に生きながらえている。

ひどいチアノーゼであったという。イラクで生まれてすぐ、医師に「この子は数日もたないだろう。」と言われたという。その後生きながらえるも、しょっちゅう無酸素発作を起こし病院へ駆け込んだという。ある夜、いつものように発作をおこし病院へ行く途中にアメリカ兵に「車から降りろ」と言われ歩いて病院へ行った。その治安の悪い中ではもうイラクにいられないと思い家族でヨルダンに逃れ潜んで生活をしていた。現地NGOカリタス・ヨルダンは都市難民の医療支援を行っていたが、自分たちでは支援できない人については、わたしたちスマイルこどもクリニックに委ねてくれた。スマイルこどもクリニックとカリタスは互いに補完しあって協力しあってイラク避難民を支援している。

 この少女はヨルダンでの主治医からも「もうすぐ死ぬ」と言われながら生活していたという。戦争で自国を追われ、そのようなこどもを抱えてのご両親の心痛は想像を超えていた。

チームは帰国後、なんとかこの少女を助けられないかと話し合った。そこで心臓病のこどもを支援している産経新聞の紹介を得て、東京女子医大の黒澤教授に相談に行った。教授は大変共感してくださり、親切にしてくださった。

MAPCA(MajorAorto-Pulmonary Collateral Arteries)という側副血行路が形成されていたら手術はできると言われた。わたしたちは、その子に3D-CTや肺シンチを施行し、術前の状態を確認するために、再びヨルダンへ飛んだ。

検査の結果、MAPCAはあった。大動脈と肺動脈をつなぐ血管はひそかにこの子の中で育っていて、この子の命をつなげていた。

ところが、三尖弁閉鎖症も合併していることが判明する資料はなぜか教授の手元に遅れて届いていた。そのためにMAPCAがあってもそのために根治手術は難しいという判断となった。

しかし、このタイムラグはわたしたちには学びの機会を、この少女とその家族には幸せをもたらした。

医学的に手術ができる、という確証を得たと思ったわたしたちに、次に待ち構えていたものは、資金集めとそして「国境」というバケモノだった。前者は借金でもすればよいが、後者のはかりしれない難しさ、そしてどうしたらそれを超えられるのかを学んだ。

まず、日本に連れてきて心臓の手術を受けさせる、とわたしたちは考えた。

しかし、この家族はヨルダンにいわゆる不法滞在の形となっている。すると、日本の入国審査でひっかかって、連れ戻されてしまう。すると、その強制送還先は、ヨルダンではなく、イラクとなってしまう。イラクに帰ると殺されてしまうかもしれない。お母さんとこの少女だけ日本へ渡航しようとすると、この二人はイラクへ、あとのお父さんとおじいさん、小さな妹はヨルダンというふうに、もう一生会えないかもしれない。

第三国への難民申請はオーストラリアにしている。オーストラリアに受け入れてもらったら、日本への行き来は自由だ。日本まで来なくてもオーストラリアで手術もしてもらえるだろう。しかし、難民の受け入れというのは針の穴ほどの確率だという。日本はとくにイラク人に対してはゼロだ。

日本の国連UNHCRの人たちにも相談にのってもらったが、戦争で避難民になってしまった人たちにとって「国境」というのは非常に冷徹であるということがよくわかっただけだった。そして国連だって、各国の思惑のはざまで若き青年のように孤軍奮闘していることも。

「法律に従ったまでだ。」その正しさの前では、小さな女の子の命さえも虫けらのように扱われる。

そして、そのあと、根治手術はできない、ということが判明。

あのかわいらしい女の子を助けてあげられないことに一時、絶望感も感じた。

しかし、黒澤教授の懇切丁寧な説明で、いろいろなことがわかった。①MAPCAがあるということは一回短絡手術をしたことと同じ。「もうすぐ死ぬ」というわけではない。いつとはいえないが、もっと生きられる。②この少女は戦争下のイラクの子であるが、この医学的アセスメントはどの国に生まれても同じ。イラク戦争のために手術を受けられなかったというわけではない。「医療の機会の平等」という原則にのっとって世界水準での検査や評価が行われたという結果となる。戦争のせいではない。どうか「憎しみの連鎖」をつくらないでほしいと言える。

 

Ⅴ.与える側と受ける側の間で育つコミュニケーションの大切さ

毎日、「この子が死んだあとに見るため。」といって少女の日常をビデオや写真に撮っている両親に、とくに①について伝えたかったが、結局わたしたちは、電話やメール、伝え聞きの不十分さを知り、遠くても、現場へ赴き、顔を見せ、同じ空気を共有して話をすることの大切さを思い知らされた。今後、通信手段が簡便になればなるほど、これは重要になってくると感じた。国際医療支援の「基本」かもしれない。

なぜなら、それをフェイス・ツー・フェイスで伝えられた少女の家族の喜ぶ様子は私たちを驚かせ、わたしたちも彼らから大きな希望をいただいたからだ。コミュニケーションとは一方的に伝えることではなく、双方が発信し、受け取るものだと実感した。

空しい机上の空論はそこまでにして、とにかく現場に行くことだ。

そして、「手術はできないが、もっと長く生きられる。残された人生を家族と希望をもって生きてほしい。」と伝えるためだけにヨルダンへやってきた私たちのチームに、ヨルダンの医師が「日本人がよくわかった。」と感動した。欧米で勉強しヨルダンで医師を続けていた彼らは「手術ができなかったら、やることはそれ以上ない。」と考えていたという。黒澤教授も、手術ができる、という話は簡単にしてくださったが、「できない。」と判明したあとのほうが、むしろ長時間かけて丁寧に説明してくださった。

でも、そのヨルダンの医師はその後大切な友人となったが、彼こそが、少女の診断書に「誰かこの愛すべき少女を助けてあげてください。」と書いていた。それを私たちが見つけたのだ。

いずれにしても彼のその評価はそのまま、多くの若き日本人医師に伝えたい。ターミナル・ケアやさまざまなところに、わたしたちは他の国の人たちに示してあげることができる素晴らしい「日本人の心」をそのDNAにもっているのだと思う。

その後、何度もこの家族を訪れたが、両親は別人のように明るくなり、「この子はもう、ほとんど無酸素発作を起こさなくなりました。」と言った。それはわたしたちにも不思議だった。

その後、オーストラリア政府にこの家族がいったん受け入れられることになったが、再び拒否された。その理由は、「病気のこどもを持つ家族を受け入れることは、オーストラリアのコミュニティに多大な負担をかける。」と書いてあった。

私は、この子の診断書を書いてオーストラリア政府に提出してもらった。

「この子は手術をする必要がありません。毎日飲まないといけない薬がありますが、そんなに高額ではありません。どうか、この愛すべき少女と良心的な家族を助けてあげてください。」日本はといえば、イラク戦争を支持したにもかかわらず、全く難民を受け入れていない。そんな国の人間であることを十分「ひけめ」としてとらえ、あまり高飛車には書かなかったが、そのような自国の事情もふまえながら、それでも精一杯誠実にお願いしたつもりだった。

その後、オーストラリア政府は彼らの受け入れを決めた。しかも、オーストラリア政府の計らいで、この子の急変に備え、何度も短距離でトランジットさせてくれて、それぞれの空港に医師を待機させてくれた。とうとうこの少女は堂々といくつもの国境を越えた。

「日本人医師が信念をもって何かを言えば、きっと世界は動いてくれる。」

常に本当かどうかわからないが、少しでいいから、信じてほしいと思う。

イラク人たちはいつも言う。

「日本人が大好きだ。」と。「素晴らしい技術をもっていて行為・振舞が素晴らしい。」

「日本は、ヒロシマ・ナガサキから立ち上がって、こんなに平和な素晴らしい国を築いた。今のイラクは滅茶苦茶にされたけど、あなたたちがわたしたちの希望なのです。」

「アメリカは壊していくけど、日本は作り直してくれる。」

(私のアメリカ人の友人はみんな、「イラクのひとたちに僕たちは戦争なんかしたくなかった。どうか、がんばってください。と伝えて。」といつも言って、イラクのひとたちにと言ってお金などをくれる。だからここでは個人的には「アメリカ政府は」という意味にとりたい。)

「大いなる日本の若者よ。」という期待を込めたアラビア語の慣用句もあるらしい。メンバーの若い男の子がよくそう声をかけられるという。

私もただの小さな女医だ。ほかの日本人の若いメンバーも日本では若造に見えたりする。でも、イラクの人たちは「日本人よ、なんとかしてくれ。どうか助けてください。」とみんな寄ってきたり、涙ぐんできたりする。

イラクのこどもたちは言葉が通じないから、次々に色鮮やかな絵を描いてくれる。そこに「イラク、日本、手と手をとって永遠に。」と書いてくれる。「ともだち」だと、一生懸命きもちを伝えてくる。

 

Ⅵ.自分の目で確かめ感じることの大切さ

日本でのイラクのニュースの報道はステレオタイプで、爆弾やテロばかりだ。イスラム教もこわいイメージで伝える。

ニュースの報道を鵜呑みにしないで、本当のイラクの人たちの善良さや友情や素朴さを現場で感じてほしいと思う。とくに自国がサポートしている戦争については、その報道について常に注意深くしていなければならない。職場や学校のうわさばなしの真偽と同じだ。ぼーっとしないで目覚めていなければならない。だから、現場にいって、自分の目で確かめることが大切だ。その国のひとたちのアドボカシーを常にしていき、その噂話に大衆が疑問を感じるようにしなければならない。それも、紛戦国での国際医療貢献の一つの大切な仕事だと思う。ナチスのユダヤ人虐殺も、ちょっとした噂話が広がって集団がそれを信じ、それを利用した権力者が組織的に行ってしまったという説もある。

イラク攻撃の前に、誰かが悪魔だという噂話はなかっただろうか。

あのとき、わたしたちは注意深く情報を吟味しようとしただろうか。

2007年9月に元サッカー選手の中田英寿さんが、この小さなわたしたちのチームに加わって難民キャンプに一緒にきてくださったが、彼も常にそのことを訴えている。

「行って自分の目で確かめる。」

 医師はそれができるパスポートをすでに手に入れている。敵や味方を超えているから、中立的に見て伝えることができる。だから、若き医師たちには毅然とアドボカシーはやってほしいし、それはきっとやらずにはいられなくなると思う。

「この人たちが戦争によってこんな厳しい状況におかれている。」というだけにとどまらず、その国のひとたちの「尊厳を守るため」そして国際社会から忘れ去られたり、あるいは歪められて伝えられてしまった場合の「届かなくなった声を届けるため」の代弁者だ。

 

 このようにして、私たちはイラク国境難民キャンプへの医療支援を継続するようになるのだが、そこには手術や入院が必要だが、放置されている人たちがたくさんいる。とにかく「国境越え」ということが一番の障害である。ヨルダン政府がなかなか許可してくれないのだ。現地の国連もなかなかそのキャンプには入れず、逆にわたしたちの活動に感謝してくれている。

しかし、迅速にレポートを書き、医療費も支援します、と粘り強く交渉すると、国連も一生懸命動いてくれる。ヨルダン政府も動いてくれる。

「助けてあげてください。」という思いは、必ず通じる。周囲が良心的でないと思っているときは、彼らを動かすほどには、自分の真心がまだまだ足りないのだ。といつも思う。

 

そして、キャンプ内では、限られた時間内に、大人もこどもも、たくさんの患者さんを診なければいけない。幼児の点滴も失敗は許されない。言葉もアラビア語なまりの英語を聞きとる。

今まで研修したなかで、一番大切だと思ったのは、やはり、スーパーローテートとERなどでの救急とプライマリーケアだ。

患者さんは専門科ごとに受け付けしてくるわけではない。医師一人のこともある。砂漠の中に高度な医療検査機器なんかない。すぐに高度な検査に頼ることなく、アナムネと身体所見から多くを判断できるような研修をしてほしい。著者自身も、今だに研修医のときの恩師に御教示を求める。研修医のとき、恩師からはいつも「頭を使え。安い医療をしろ。」と叱ってくださったことに感謝している。また、スーパーローテートのたたき上げの医師であったから、症状について、単科にとどまらない複数科にまたがる診断を系統的に御指導くださった。今、再び必要に迫られて、また研修をおさらいしたいと思っている。

精神論も大切だが、医師としての技術と知識、語学力は磨き続けなければといつも自省し、行きの飛行機の中では試験の前の日のように殺気立って勉強している。

 

おわりに-小児科医だからできること

この医療支援活動をどのように世界平和に繋げるか、まだまだ全くわからない。しかし、「こどもの命を助けたい。」その思いを掲げた小児科医たちは、や各国の思惑、利益の追求、そして「憎しみの連鎖」などで絶望的にさえ見える世界の現実の中、国連憲章の「こどもの権利の条約」も戦争という状態が優先されスローガン化する中、それらを世界に本当のリアリティとして具現化するキー・ワーカーだ。

それが小児科医だからこそできる国際協力だ。普段やっていることの場所がかわっただけだ。だから、すべての小児科医にできることだと思う。

私が難民キャンプへいくときに着るケーシー白衣にはアラビア語で「イラクのこどもの命を助けたい。」とヨルダンの現地スタッフが書いてくれている。これを見て、国境の厳しい軍の人も警察も役人も、腰をおろして「ありがとう。」と言ってくれ道中を厳重にエスコートしてくれる。同じ気持ちになってくれる。さまざまなところで、たくさんの人たちが同じ気持ちになって自分のできるかぎりをつくしてくれる。

世の中が戦争や混乱に向かうと世界でジョン・レノンの「イマジン」という曲が多くのひとたちに歌われるという。「世界は一つになれる。」の本当の意味はまだわからないのだが、戦火の国のこどもたちに聴診器を当て、その身体に触れ、老人の苦しみを聞き、笑顔に触れ、ときに家族を失った悲しみをともにかみしめる。

日常、日本で診る患者さんや家族たちと全く変わらないではないか!

それを肌で感じることのできる天職を与えられた若き医師たちには、素晴らしい可能性があり、日本の医師たちは国際社会の中で「光」のような存在になれることと思っている。