2兎追うものは・・・・・3兎を得る?
 
  学生時代、今の主人と結婚しようとしたら、親から「稼ぎもないのにまだ早い」と反対され、卒業を待ってすぐに結婚しました。
主人と一緒に暮らせるようになってとってもうれしかったです。だから、精神科医になって、やりがいがあったかどうか、あんまり考えたこともないほど、どうしようもないやぶ医者でした。
 2人目のこどもが生まれたことがきっかけで、「子供の命を救うことのできる医者になりたい。」と人生30年目にして、やっと、まともな人間になれました。
 この思いは自分でもわからないのですが、とても強く、やはりそのときは、いとも簡単にこどもが衰弱し、なくなってしまう発展途上国や難民キャンプなどに行って、助けることができたらと思うようになりました。
 そんなタフな現場は専門で区切られているはずないだろう。そのためには、大学の小児科に入局するより、スーパーローテートをして、外傷も大人も診ることができなければいけないだろう、と思い、大学を離れ、大阪の八尾徳州会病院で研修医をやりなおしました。
徳州会で研修することは、主人の学生時代からの夢でもあったので、2人一緒に研修医をやりなおしました。
医師になって6年目でした。そして、3歳と1歳のもこどもたちも一緒でした。
 そこでは、1年目の私たちでも、第1線で、救急を診させていただくことができ、ほんとうに、幸せでした。
研修委員長の先生がとっても素晴らしい先生で、こどもをかかえてのこの状況や私の夢を理解して協力してくださり、続けることができました。当直の日も、「絶対にこどもたちを添い寝で寝かしつけ、淋しがらせたくない」といって、「夕方5時に保育園に迎えに行き、ご飯をたべさせお風呂に入れ、寝かしつけて午後8時に当直に入る」という私の誠に勝手なわがままも受け入れてくださり、調整してくださいました。
あの先生と出会わなかったら、今の私たちはいません。もちろん、厳しい研修医生活をしながら、協力してくれた夫も大変だったと思います。
 小児科をまわっていたとき、一晩中、ほとんど5分おきに痙攣などのこどもを乗せた救急車が奈良県からも搬入され、夜間の外来は大勢のぐったりした患児がお母さんに抱きかかえられ、みんな3、4時間待ち・・・この状況をみて、「日本の夜間の小児救急が難民キャンプか発展途上国だ」と思いました。
 その後、研修のしあげ、北海道のへき地研修を終え湘南鎌倉病院へうつりました。
 夜間救急の現場でたらいまわしになって、無念な結果になったこどもたちのことが、メディアでとりあげられるたびに、「ちょっと点滴をして脱水を改善してあげたら・・・痙攣をすぐとめてあげていたら・・・脳浮腫を防いであげられたら・・・気道確保をしてあげていたら・・・死なないですんだのに。お母さんはその子のぬくもりを今でも感じることができたのに。」と高度病院が受け入れられなかったから・・・でなく、患者さんがすぐに入れて、いつでも受け入れてあげられる敷居の低い施設が近くにあったら、死なせないですんだのに。
高度医療が必要だったとしても、気道確保して、心臓と肺だけでも動いている状態で搬送できたらそこで、もっと素晴らしい治療を受けて、その子はリカバリーできるだろう・・・高度医療病院にご遺体をもっていくんじゃなくて・・・。と思い、また、小児救急では、一見軽症に思える中に、常に重症が含まれていたり、急変しやすかったり、という特性があり、電話相談などでお茶を濁すと大変なことになるから、親御さんからみて、いつもと違って心配であったら、必ず駆け込めるところが必要だ、と。
 そんな患者さんにとって敷居の低い施設・・・スマイルこどもクリニックを主人と開院しました。
 最初は主人と2人、12時間交代・・・こどもたちを寝かしつけてから私が出勤です。・・・で大変でした。たらいまわしの救急車もよく来ました。でも、1人、また1人と、同じ気持ちで協力してくださる先生方が現れ、2年後には長野県松本にも開設を頼まれ、その2年後には東京ディズニーランドの近く、浦安にも開設することができ、今では、それぞれの院長せんせいがたはじめ、素晴らしい先生方が診療してくださっています。スタッフたちも、こちらが頭が下がるくらいモチベーションの高いひとたちが多いです。
 
 ただ、松本の開院を準備しているときに、イラク戦争がはじまりました。ミサイルが発射される様子を私はテレビで見ていました。本当に普通にお茶の間でそれを見ていました。そのミサイルの先に自分のこどもがいたら、きっと私は、ミサイルの前に立ちはだかってでも止めようとしたでしょう。そのときの私には、その先にいるイラクのこどもたちへのイマジネーションがありませんでした。
 多くのこどもたちが殺されている・・・気になっていましたが、イラクは遠い国のように思え、日常を忙しく過ごしていました。
テレビのニュースで、戦争に反対してピースウオークを渋谷で始め、4万人の人がついてきてくれた、という、若い女性が出ていました。「みんなが戦争ノーっていったら、戦争はおこせないでしょ。」ノーといわなかった自分が責められているような気がしました。
その女性にたまたま出会い、声をかけてしまいました。優しそうな人でした。
そうしたら、なぜか、すごい罪悪感で涙があふれてしまいました。
 同じ月に、イラクの女医さんが信州大学の学生さんたちに呼ばれて松本に講演に来られました。イラクでは、劣化ウラン弾の影響といわれる白血病や悪性腫瘍のこどもたちが増え、病院なども破壊されているため、十分な治療が受けられず、苦しみながら、次々と亡くなっていることを話していました。薬がない、点滴の針がない・・・その女医さんの泊っているホテルに、クリニックから点滴の針をもっていったら、その女医さんは興奮して喜んでいました。その様子にイラクの現状があまりにも悲惨であることが容易に想像され、びっくりしました。NGOを通じて、薬などの支援をしていましたが、お金のみの支援に、正直、恥ずかしさを感じていました。
 その半年後、そのNGO(JIM-NET・・・日本イラク医療ネットワーク)の人たちの事務所を訪問させていただくことができ、お話を聞いたら、難民キャンプのことも教えてくれました。
「医師はいるけど、あまり診てくれないってキャンプのひとたちが不満をいっているよ。日本のお医者さんが行ったら、きっと喜んでくれるよ。じゃあ国連に聞いてみるよ。」数日後には、現地のUNHCRから「ユカリドクターはいつ来るの?」というメールの転送がきて、びっくりしました。CVも医師免許の提出も要求されず、そのNGOの人たちが現地で、いかに強く信頼されているか実感しました。
 迷う間もなく、翌月には出発し、ヨルダン=イラク国境難民キャンプでメディカルチェックアップなどの医療支援に行かせていただきました。主人も、他のスマイルのスタッフも一緒に行きました。第1回目はなにがなんだかわかりませんでした。でも、現地のこどもたちの笑顔を思うと、「日本人たちは、世界は、君たちを見捨てていないよ。」と伝え続けないといけないと思いました。
だから、半年に1回でも継続しなければいけないと思いました。(イラク難民キャンプの医療支援についてくわしくはホームページで)
 ところが、帰国後すぐに私は10年ぶりに妊娠していました。行くことができないのをすごく残念に思いました。・・・でも、その思いを、つなげるどころか、さらに強い信念をもっているスマイルのスタッフや先生方が次々、手をあげてくださって、続けることができています。
今年に入って、3番目の子も元気で1歳になり、私も2年ぶりにヨルダンへ行くことができました。
心臓病の4歳の女の子がなんとか手術が受けられるように、奮闘しているところです。
 ヨルダンへ行って思ったのは、中東では、日本人はとても好かれて尊敬されているということ。「アメリカは壊していくけど、日本は作り直してくれる。」「ヒロシマ・ナガサキから立ち直って、こんなに素晴らしい国になった。・・・」
 そして、イスラムのひとたちは、とっても純朴で平和的な心のやさしいひとたちであるということ。とくに、ヨルダンはとっても良心的で、平和な国です。
 誰かが言っていたけど、「日本は、もっと中東の平和にリーダーシップがとれるんじゃないか。」私も、日本人が「戦争なんかやめようよ。」とか、何か言えば、
 何かが変わるのではないかと、実感しています。
 
 「政治」や「宗教」って、ちょっと難しい。「経済」になると、人々の欲望もからんできて、もっとややこしくなる・・・。でも「医療」はちがう。「この子を助けたい。」「痛みをとってあげたい。」「元気になってほしい。」「不安を消してあげたい。」それは、国を超えた人類の共通語。きっと、「医療」で、国を超えた「共感」が生まれ、世界平和が訪れると思うし、そう思うと、私たち日本の医師や医療関係者は大きな可能性をもっていると思います。
 日いずる国、日本から、世界を照らす光に、みなさん、きっとなってくださいね!
 ということで、子育てと医師との両立はできているかわかりません。
 もし、百歩譲って、できているとしたら、このように、私より素晴らしい多くの人たちの協力とサポート、そして、大切なときにはいつもそばにいてくれる、最愛の夫のおかげだと思います。
それから、「進む勇気」と「立ち止まる勇気」を。私は、ときどき、カメのようになるんですよ。
そして、私のような利己的で出来の悪い人間は、こどもをもつことにより、その愛情のフィルターを通して、世界のこどもたちへの愛を感じることができるのだと思います。
 こどもがいなくても、とびきりの母性愛をもっている人たちもたくさんいて、上手に時間をやりくりしたりして子育てを両立している人たち以上に、そういう人たちには、いつも尊敬の念を感じています。

以上です。内容と、題が離れてしまいました。
 「あまり、心配しないで、やってみよう」という意味なのですが・・・
   すみません。
 
                                          加藤ユカリ