福島フレッシュサマーキャンプ 「今この瞬間を生きる」 スマイルこどもクリニック 救急救命士 田口 諒 私自身も自宅におり、一瞬何が起きているのかが理解できなった。その時、必死に危険な物から姪っ子を守る事しかできなかった。普段どんなに震災が起きた時の知識や技術があったとしても、いざ起こった時には何も出来ない事を痛感させられた瞬間であったと思う。 家の物が落ちる音、自転車が倒れ、車が大きく左右に揺れ、電信柱も大きく揺れ、地響きがし、初めて死というものを感じた。だが、福島の人達は私が体験した揺れよりも更に大きい揺れを感じ、不安や恐怖を感じていたのだと今は思っている。 揺れも落ち着き、まず私が思ったのは近所の人達の安否であった。普段付き合いのある人達が心配になり見にいった。ここからが本当に私が出来る仕事だと思った。震災が起きた時こそトリアージというものが必要となる。必死で近所を自転車で駆け回った。 駅では人がごった返し、踏み切りも閉まったまま電車は動いていなかった。初めての体験に民間路線もどう対応して良いのか分からない状況であった。このまま駅で待っていたのでは到底時間までには間に合わないと感じた私は、自転車で病院まで向かうことにした。 怒涛の当直は過ぎ去り、気がつくと朝になっていた。だが、日本中が本当に大変になるのは、この時だったのかもしれない。 ようやく、震災の全貌が見え始めてきた。M(9.0)死者1万5千人超え、行方不明者5千人弱、被害額25兆円以上。だが、津波の被害が大半を占めていた。本来なら安全である場所も全て飲み込まれ、多くの人達の命が奪われた。その様子をテレビで見ていた私は唖然とした。人や車、家までがなくなっていく。でも、その様子を現地の人達は目の前で見ている。今まで住んでいた家が真横で流され、家族、友人、恋人、会えなかった人も数多くいただろう。テレビに映っている事も忘れ泣き出す人達。その人達にとっては、そんな事はどうでもよかったのだろうと感じた。皆が無事ならそれでいいと思っていたに違いない。メディアの方達も辛い現場を撮影するのに戸惑った事だと思う。でも、今何が日本で起こっているのかを伝えられるのは彼らしかいない。全ては伝え切れなかったかもしれないが、それでも日本中の人、一人一人にはしっかりと伝わっていた。 国やボランティア団体が動き出し、出来る事は何だろうと思い、行動し始めたのだ。 昔から、子供の為に役に立てる仕事がしたい、そう思っていた。早速連絡を取り、体験に行かせて頂いた。一番に目に飛び込んできたのは、イラクやヨルダンなどの難民キャンプで子供達を助けている加藤隆Dr、加藤ユカリDr、大向薬剤師の写真だった。 スマイルこどもクリニックは、私が思っていたよりもすごい場所であると圧倒された。 無事に採用となってからは、覚えることも多く、前と違う環境に戸惑いつつも日々勉強をさせて頂きながら仕事をしていた。1ヶ月目にさしかかろうとしていた時、福島のサマーキャンプの話がスマイルに届き、行ってみないかと話がきた。大変な事とは分かっていたが、率直な気持はとても行きたい気持ちでいっぱいだった。行けると分かってからは、やりとげられるかが不安だったが、その反面とても楽しみな気持ちがあった。 8月10日から12日までの2泊3日だった。同行することになったのは、加藤ユカリDr、水上看護師、大向薬剤師と私の4名だった。どんな患者が来ても大丈夫な資器材を準備し、福島へ向った。 子供達は思っていた以上にとても元気だったのだ。それにはとても驚かされた。一日以上も掛けてホテルに到着しているのにも関わらず、疲れを知らないのだろうかと思わされたぐらいだ。 初日は、夕飯にバーベキューをして、その後花火をして終了の予定であった。が、しかし皆が皆、怪我や病気をしない訳は無かった。花火の煙での喘息発作。バーベキュー、花火での焼けど。それぞれ軽症であったが、喘息発作に関しては早急に処置をしなくてはいけない病気。医療チームが同行していて良かったと感じた。吸入をした子は、楽しみに来ているのに治療なんかされて…と、ちょっと浮かない感じの表情だった。処置が終わるとそそくさと走ってまた皆のもとに行ってしまった。「また後で来てくれるかな。」ユカリDrの言葉。「うん分かったよー。」と、その子は言ったが、その後部屋に来ることは無かった。心配で、ユカリDrはその子の所に行き症状を確認。大丈夫だったみたいだ。ひとまず安心した。次に、学生スタッフの花火で指の焼けどをした方が部屋を訪れた。軽症で良かったものの、頑張り過ぎてしまったらしい。 子供達に少しでも笑顔と元気をあげたいと、学生スタッフさんは大忙し。今回のサマーキャンプは、ほとんどの仕事を学生スタッフさんが皆で協力をして行なっていた。福島から同行している福島大学の学生19名、現地の三重大学やその他のボランティア学生22名。子供達1人1人にマンツーマンで付き添い、いつどんな時でも対応出来るようにしていた。表情一つ見落とさずに、いつも話しかけ笑顔を与えていた。 一日目、お風呂に入って子供達は就寝。その後、大人達は次の日の打ち合わせ。一分、一秒でも時間は無駄に出来ない。その気持が打ち合わせの中で凄く伝わってきた。話し合いは0時を過ぎても続き、2時間を越えていた。こんなに思ってくれているスタッフがいるから、子供達は震災の事も忘れて笑顔で遊んでいられているのではないかと思った。 二日目の朝が来た。今日は、朝から海で海水浴〜伊勢型紙でのランプシェード作り〜志摩スペイン村の遊園地、花火を見る。と、かなり内容の濃い一日となっていた。海水浴ではみんな海で泳げると大騒ぎ。そんな中、体調が悪いと一人の女の子がやってきた。すみぼーちゃんだ。発汗が多く、顔も蒼白で脱水症状が起こっていた。でも、本人は皆と海で泳ぎたい。横になりながら、悲しい気持ちが涙となって流れ出していた。「点滴をしましょう!!」と、ユカリDr。少しでも良くなって欲しいとの判断だった。クーリングをしながら生食500mlを全開で落とした。良くなって皆と海で泳ごうね。そう言って必死に処置を続けた。しかし、少し元気にはなったが海では泳ぐことは出来なかった。絶対、スペイン村には皆と行こう。ランプシェード作りを諦め、部屋で3時間ほど寝る決断をした。疲れもかなり溜まっていたらしい。すみぼーちゃんのバディーで、至学館の大学生のアミーゴさんがその間ずっと付き添っていてくれた。そして、アミーゴさんとわたし達は、少し話をすることが出来た。アミーゴさんは、笑顔で今回のサマーキャンプに同行した思いと将来の事を話してくれた。「子供達の笑顔をみたいんです。子供が好きだから。」震災があってから、私自身には何が出来るだろうかと考えていたらしい。本当は私、将来スポーツ選手の栄養士になるのが夢だったんですよ。でも、今は違います。震災があって、被災した人達は思うようにスポーツも出来なくなって…、大変な思いをしている。スポーツは、お金があって裕福な人が出来る事だって気がついたんです。だから私は、老人や子供達、困っている人達の栄養管理が出来る栄養士になりたいんです、と話をしてくれた。大学2年生で今までやりたかった事を変え、ここまでしっかりと将来のことを考えられているアミーゴがとても凄いと思った。私ならここまで考えられるだろうかと感じさせられた。 その後、すみぼーちゃんの体調が良くなりスペイン村からまた皆と行動が共にできるようになった。 福島大の先生は、国の対応が遅過ぎると一言。被災した方が住むプレハブも来年にならないと出来ないとか。現地の人はもう、どのように生活をしていったらいいか自分達で分かっているし、大学生は放射能についてよく知っている。放射能測定器も持っているほどだ。国は、被害の大きい場所から手を付けているが、その他だって被災した方達は大勢いる。自分達でなんとかしていくしかないんですよ。と、よっぽど総理大臣より説得力がある言葉だった。テレビでしか被災地の状況を知らない私にとっては、とても衝撃的な話の内容であった。 電池が買えない、ガソリンが無くなる、食品が無くなるなど関東地方でも凄い社会現象が起こったが…それが恥ずかしいとまで思う内容だった。 スペイン村では、怪我や病気になった子供達はいなかったが、日焼けをした子供達が痛いと受診が続出。1度の熱傷にまでなっていた子も中にはいた。思い出して考えてみると、子供達は始め皆肌が白かった。放射能が漏れてから、外で遊ぶことができていなかったからだ。遊びはいつも体育館であったと言っていた。夜には、日焼けの子供達で医療チームも大忙しだった。しかし、皆痛いと言いつつも、私には笑顔が少し見受けられていた様に思う。思う存分外で遊べて満足しているようだった。ガーゼ、氷嚢、リンデロンはいくつ使ったのかも思い出せないほど忙しい夜だった。 いつの間にか、スマイルの部屋は気軽に出入りが出来る部屋になっていた。子供達が、ちょっとした事でも部屋に寄ってきてくるようになり、最終日を前に皆が安心できる部屋になっていた様に感じた。 最終日となり、この日は皆と午後には別れないといけない日。午前中は、海でレクリエーションを行い、こども達は砂浜で思う存分に遊んでいた。熱中症には気をつけないと、後、日焼けにも。と、医療チーム皆で子供をうちわで扇ぎ、氷嚢を作り、クーリングに徹していた。その甲斐もあってか、熱中症になるような子は一人も出なかった。ホテルに戻り、昼ご飯を食べ、そろそろ皆とお別れの時がやってきた。福島の子供達や学生は、また一日掛けて福島までフェリーで帰らないと行けない。でも、帰る時まで元気いっぱいだった。福島に着くまでがサマーキャンプです。資器材を福島の看護師さんに少し分けて、何か船で起きたら使ってくださいとお願いをした。短い間だったが、大切な友達と別れる時の気分でいっぱいだった。 まだ余震も落ち着いてなく、昼夜関係なく起こる地震の元に帰って行くのだと思うと、とても心配だった。でも、彼らはそこが実家なのだとも思った。どんなに危険な場所でもそこしか帰る場所が無いんだから。今後何もなく元気に生活を送っていけるように祈っているしかない。私には今後何が出来るのだろうか?国は今後どの様に被災地を支援していくのだろうか?問題は山積みではあるが一つ一つ確実に問題をこなして行くことが被災された方への為になるのではないかと思う。 最後に…今回、一番衝撃を受けた一言。福島の子供達が、三重に来て言っていたという一言。「ここでは、マスクを取ってもいいのですか?」とても、衝撃的な言葉だった。自分の耳を疑った程だ。同じ日本という国にいるのに、福島の子供にそこまで言わせてしまったのだ。私は何とも言えない悲しい気分になった。自然災害とは恐ろしいものだ。誰のせいでもないが、一回起きただけで人生が180度変わってしまう。でも、少しは防ぐ事が出来ると思う。皆が災害に対して常日頃から関心を持ち、注意する事と、国や企業の政策や対策によって少しは防げるのではないかと。 私自身に今出来ることは、スマイルで働きながら毎日辛い顔をしている子供を元気にさせてあげることだ。 |